『放課後のプレアデス』と『恐竜』

放課後のプレアデス』四話を観て思い出していたのは世界一短い小説として有名なアウグスト・モンテロッソ『恐竜』のことだった。ひかるの目が覚めたとき、彼女はまだ宇宙にいて、まだステッキにまたがっていて、まだ夢の中のひとが隣にいて、まだ夢の中の音楽が聞こえていて、でもステッキは動いているから彼女はすでに月の衛星軌道上まで来ている。眠っているあいだに変わったこと、変わらなかったこと。

"Cuando despertó, el dinosaurio todavía estaba allí."

《目を覚ましたとき、恐竜はまだそこにいた》


 この一文を読んでパッと頭に浮かぶ光景は大別すると二つになるだろう。眠る前に恐竜がそこにいて、眠っているあいだにいなくなると予期されていたにもかかわらず、目を覚ましても恐竜はまだそこにいた。あるいは夢の中で出会った恐竜が、目を覚ますとまだそのままそこにいた*1。どちらにしてもこの小説のすべてを構成するたった七語では決め手になりようがない。つまりどちらの光景も同時に成立する、ということになる。恐竜がいることが前提の世界であり、その世界の様態の堅固さが目覚めという"中断と再開"によって縁取られるのが前者だとするなら、恐竜が存在しないはずの世界に現実とは異なるあり方で作用する夢の世界の法則が持ち込まれるのが後者。恐竜がいるはずの世界の持続と恐竜がいないはずの世界の崩壊が一文の内に同時に存在する。では"Cuando despertó"という三人称単数表現で省かれている行為の主体はいったい誰なのか、そう考えるとき、もう一つの光景が立ち上がってきはしまいか。すなわち、"そこ"で目を覚ましたのは恐竜だった。そうなるとこの一文すべてが遠い夢の世界の出来事のようにも思えてくる。光景にはのんびりとユーモラスな雰囲気もありつつ、対象のない指示語の存在によってカフカ『変身』冒頭の《気がかりな夢 "unruhigen Träumen"》を参照するかのような内実のはっきりしない不安感がうっすらと漂っているような気配もある。夢も小説もともに人間の言語活動であり、ゆえに小説=夢の圏域にあっては恐竜もまた夢を見る。この小説を構成する七語に"夢"を直接的に指示する単語はないのに、それでも夢のにおいを感じ取ってしまうのはその視点の曖昧さ、多重性ゆえではないか。夢に立ち入らない"わたし"の視点、夢と夢の外を越境する"わたし"の視点、夢の光景そのものである"わたし"の視点。みんな"わたし"。


 ひかるが夢の中で父親のピアノの音を聞いたときにぽつんと漏らした「夢はなにかと用意がいいね」というつぶやき。これは現実とは異なるあり方で作用する夢の法則についての言及であり、その夢の法則を夢と意識しながら所与として受け入れている彼女自身を、そのことによって触媒として夢の外へと差し向けるための予備動作でもあったのだろう。実際に音は夢の外でも鳴っているのだからその音は夢によって用意されたものではない。だけどすばるの存在はひかるのイメージに沿って再構成されていたのだから、夢の外で鳴っている音が夢の中でも同じように鳴っているのもまた夢の法則が作用した結果なのだと言える。そしてなんとすばるも同じ夢を見ていた! その夢が"同じ"だったかどうかはすばるの視点がないからわからないし、たとえ同じだったとしても"同じ"ではなかっただろう。でも夢を見ていたのは同じ、二人一緒に"そこ"にいて、同じものを食べた。そのことを知ることができたのは二人とも目を覚ますことができたからだ。目が覚める、ということは夢の世界の中断であり、夢の外の世界の再開であるが(目覚めるということは今日という昨日と同じ一日が始まるということであり、しかし今日が昨日と同じ一日であることはありえない)、夢の外の世界が続いているからこそ"わたし"は目を覚ますことができる、でも目を覚ました先が夢の外であるという保証なんてどこにもないのだから、夢の外の世界が夢の外の世界であるため夢には夢らしくあってもらわなくてはならないのだが、ではその"らしさ"のイメージの出自はいったいどこなのだろうかというと、それはこれまで蓄積されきた数々の物語であり、つまりやっぱり"夢"なのだ。

*1:ところで後者の読み方は恐竜が存在しうる世界においても存在しえない世界においても同様に成立しうるものだと思うが、実際にこの小説が読まれているこの世界では恐竜はすでに絶滅しているのだから、ジャンルや世界観などの事前設定が与えられていない状況で一つの現代小説として読者の常識の延長線上で読むということであれば、恐竜が存在しえない世界の出来事として読むほうがより自然というか直線的だといえるのではなかろうか。わざわざ恐竜を比喩としてとらえるのもまた「負担」ではあるだろうし。

『アイドルマスター シンデレラガールズ』13話

アイドルマスターシンデレラガールズ』OPでいちばん印象的なのは徹底して俯瞰を見せないことで、カメラが仮想空間的な動きを見せようがどれだけカットが切り替わろうが適切な位置で上昇してそのフォーメーションの全貌を見せてくれることはない。アイドルたちが見得を切ろうが、懸命に歌い踊る彼女たちの横顔をいかに捕らえようが、カメラはそれを見せるだけ、切って、繋いで、肝心なところで暗転に任せる。本編の作劇もまたそのように進行してきた。プロデューサーは頑なにアイドルたちに言葉を与えず、シンデレラプロジェクトの目的さえ提示しない。メンバーの欠場や交代、またステージの再開さえ明示的にアナウンスしないフェスとは何なのか。あの行き当たりばったりにも見える構成は。カメラはあくまで観客の視線を代理はしない。前回未央があんなにもこだわったフォーメーションはOP同様仮想的に繋ぎ合わされるだけだ。ただ観客の一体となった掛け声、サイリウムを駆使した舞踏、そのあらゆる熱狂のうねりがアイドルたちの舞台を照らし、それに向かって彼女たちは表情、ダンス、歌唱によって応じる。「ひとりひとりに楽しんでもらう」と宣言したのも未央だった。それはすなわち「誰のことも視ない」ということ。誰のことも視ないから、誰のことでも視ることができる。宝塚の銀橋のように、その上をトップスターがどこともない宙空を見つめながら歌い、踊るように、観客席とステージは同一平面上にはなく、観客はその隔たりをどこともなく見上げ、パフォーマーはどこともない宙空を見据える。しかしニュージェネレーションズはあの数少ない観客たちのことを(今度は)ちゃんと覚えている。偶然居合わせた人々のことも、天候悪化という偶然的条件のもとそれでもステージの見えるところに陣取っていた人々のことも。それらは等しく観客の視線、熱狂として彼女たちのステージ上でのあらゆるムーヴに刻まれているのだ。あとは彼女たちがそれをめいめいまっとうすればいい。『アイドルマスター シンデレラガールズ』はとりあえずそれが彼女たちの"初陣"である、という回答を提示したのだと思う。

『たまこラブストーリー』一景

鴨川デルタの飛び石の真ん中でもち蔵から告白を受けたたまこはあまりの動揺に足を滑らせ川に転落するのだが、どうやらそのときコンタクトレンズを落としたようだ、ということはずぶ濡れのまま霞がかった視界のなか京都の町や商店街をひた走って帰宅するまで気付かない。ところでこの後しばらくもち蔵に対してまともに接することのできないたまこが全身をカチコチに硬直させながら口走ることになる「いいってことよ」や「かたじけねえ」はいわゆる江戸っ子口調であり、となれば『たまこまーけっと』において神様の使いでもあり旅人でもあるというフーテンの寅さん的な存在としてうさぎ山商店街に現れたデラ・モチマッヅィを、デラ自身はそのような口調ではないものの、想起させなくもない(もちろん劇中ではたまこがデラのことを意識にのぼらせているような描写は一切なかった。だが『たまこラブストーリー』本編開始前に挿入された短編『南の島のデラちゃん』をすでに観ている観客は、別れ際にデラから贈られた羽をたまこが大事に部屋に飾っていることを知っている。映画の後半では一方的にたまこのことを思うチョイの姿が唐突に差し挟まれもする。そこに直接的な通信のやりとりはなくとも、糸電話の糸のようなものがちゃんと張られていることを、映画の外に置かれたはずのつながりをわたしたちは信じてもいいはずなのだ)。


 呼び水はあった。たまことあんこが銭湯に行く最初のシークエンスで、たまこはコンタクトレンズを外すのを忘れて浴室へと足を踏み入れ、そこで普段は目にすることのないご近所さんの大きな胸に圧倒される。一瞬だけ自分の胸に意識がいくも、そこは変態もち娘、不意にたまこに天啓が。「おっぱいもちはどうだろう」……呆れるあんこ。そして観客は思う。それデラと発想が同じだから!!


 観客だけが知るたまことデラの秘やかなつながり。銭湯と鴨川。そしてたまこは靄のなかをひた走ったあと「コンタクトレンズ落としちゃった」と呟く。あのたまこを取り巻いていた靄はもち蔵の告白に混乱する彼女の主観風景ではなく、もとい主観風景であると同時に、コンタクトレンズが外れてしまったたまこ自身の焦点のぼやけた視界そのものだったのだ。ぼやけた視界と、靄がかった彼女の主観と、京都の町をひた走るたまこの横顔。短いカットのなかで三つの層が渾然となりながらも、「実はコンタクトレンズが外れていた」ということを遅れて明かすことで観客の視点をたまこの視点と同一化させたままではおかない。たまこの戸惑いはたまこだけのもの。ただわたしたちに許されているのはたまこの視点に寄り添いながら早朝の商店街の空気を初めて吸うこと、クラスメイトと戯れる幼なじみの見たことのない表情に気がつくこと、自分の夢に向かって足を踏み出したクラスメイトを見つめながら遠く飛行機の音を聞くこと……だけなのだ。

メッセンジャーであるということ〜宝塚雪組『Shall we ダンス?』

東京公演が始まる前にいちおう。宝塚雪組公演『Shall we ダンス?』について。小柳奈穂子/脚本・演出作は初見。第一印象が「こりゃ少女漫画だなあ」というもので、いわば設定だけは外国ながら人物たちに流れているのは日本人の血、舞台設定は外国だけど考証は表面的で文化風習に現代日本の感性が見え隠れしている、ただただカタカナの名前を持った金髪碧眼八頭身の男たちがたむろして現実離れした会話をしているのが不自然でない絵面を優先させました、みたいな。大らかといえば大らか、いい加減といえばいい加減な古式ゆかしき少女漫画のたたずまい。『Shall we ダンス?』は筋立て自体はおそらく――観ていないのでどこまでそうかはわからないけど――映画そのままで、でも日本の平凡なサラリーマンがふと見上げた駅前のダンス教室のネオンに目を取られ……などという話をタカラジェンヌが演じたところで不自然どころか破綻さえしかねないので(なにせ役所広司はお世辞にも美しいとは言い難いおじさんであるわけで、とはいえ主演の壮一帆だって年齢自体は当時の役所氏とさして変わらないはずではあるのだが)、舞台は西洋のオフィス街に移され、壮一帆は眉目秀麗ながらもスーツや休日のお父さんセーターを身体に馴染ませ、いかにも平凡な体で舞台に立っている。


 ところでオフィスの同僚でダンス教室の先輩である夢乃聖夏演ずるラテン男は映画未見の自分でも即座に「あ、これ竹中直人だ」とわかるほどの暑苦しいオーヴァーアクションで登場するのだが、宝塚の男役である夢乃聖夏がいかにも躁的な竹中直人のラテン乗りをなぞるのではなくそこに様式的な男役ポーズを乗せることで暑苦しいラテンのリズムで壮一帆にダンスの魅力を語る言葉が同時に男役ポーズすなわちその様式性の根源である宝塚歌劇そのものの魅力をも語る言葉にもなっている。劇中では壮一帆演じる平凡なサラリーマン個人へと向けられたその言葉は壮一帆の帯びる平凡さ、無名性の記号を媒介することで舞台の外側へと拡散していくのだ。踊る側とそれを見上げる側。有名性と無名性。そのあいだを橋渡しするもの。終盤、壮一帆はかつて初めてダンス教室を見上げ、早霧せいながひとり踊る姿を目撃したのと同じ窓の下に立ち、同じように教室を見上げる。するとダンス教室のネオンが明滅し、"Shall we ダンス?"というメッセージへと変わる。それは世界からのメッセージだろう。そして壮一帆はそのメッセージをかつて踊ることをやめ、再び踊る契機を探していた早霧せいなに差し出す。そして彼女はそれを受け取り、すなわち壮一帆の言葉を受けて彼の手を取り、再び踊り出す。メッセージを待つこと、メッセージを受け取ること、メッセージを待つ者にメッセージを差し出すこと。壮一帆の妻を演じる愛加あゆは言う。「ダンスを始めたって人生は何も変わらないかも知れない。でも明日変わってしまうかもわからない」


 タカラジェンヌとは世界からのメッセージを受け取る者である。そしてメッセージを待つ観客へと届ける者である。"Shall we ダンス?"はわたしたち観客を観客たらしめる魔法の言葉でもあるのだ……そのようにこの作品を受け取った。

テレパスについて〜藤子・F・不二雄『耳太郎』(改)

漫画の登場人物としてのテレパスはいったい何を聞いているのか。たとえば『ドラえもん』にも「テレパしい」(1978/小学五年生)という道具が登場するエピソードがあるが、これは他人の心の声を読むのではなく、特定の他人に自分の考えていることを聞かせるという指向性を持つ通信のためのテレパシー能力を付与するもので、誰にどのような言葉を送るのかを具体的にイメージすることで能力が発動する/していることが(相手に思考内容が伝達することで)明白となる。しかし能力を使い慣れるにつれて相手に伝えようと意識していないちょっとした思念や一瞬萌した思いまでもが指向性を持つようになり、あわてて考えてはいけないと考えを打ち消そうとすればするほどその存在を意識してしまい何もかもだだ漏れ状態で相手に伝わってしまうというおなじみテクノロジーに胡座をかくことに対する容赦なきハシゴ外しのしっぺ返し展開。とうぜん『ドラえもん』の常ながらテレパス能力を道具によって付与されるのはのび太であり、例のごとく調子に乗ってひどい目にあったあげく最後にはドラえもんにおいおいと泣きつくのだが、実際に泣き叫びながら反省を口にしてすがりつくのび太の《「おひとよしだから、ちょっとおだてるとすぐきげんがなおる」》という「本音」がドラえもんに伝達して怒りを買い、最終コマで突き放されてしまうのがこれまたお約束的なオチとなっている。ちなみにドラえもんが自らに伝達された上記の「本音」を声に出して反芻する際、のび太は困惑の表情で口に手を当てるジェスチャーをしていることからその「本音」がのび太本人にまったく身に覚えのない思考内容というわけではなさそうだ、ということがうかがえる。


 それを踏まえた上でメッセージとメタメッセージについて。テクストを鑑みる限り、当初のび太の反省の言葉には何の留保や言い訳も見受けられないし、必死の表情や涙、おがむような懇願の姿勢からメッセージとしてのび太の口から発せられている反省の言葉に反するようなメタメッセージを受け取ることはできない。つまり本来ならば発話とジェスチャーは相補的なひとまとまりのメッセージとしてドラえもんに提出されているはずなのだが、上記のような「本音」がテレパシーによって送信されてしまうことで内心に秘められたその思考内容こそが主体的なメッセージであり、実際に表出された言葉や身振りはそれに反するメタメッセージなのだ、という位相の変移が生じてしまっている。ではのび太が全身で反省の意を表明しておきながら実は内心では反省するどころか高を括って舌を出していたのかというとそれは記述からは判断できない。ただドラえもんに「本音」を読まれてしまったことで"そういうこと"になってしまっている。タマゴが先かニワトリが先か。ここに三つの判断が交差することである漫画的な力場が形成されている、と見ることができるだろう……というわけでごくごく簡略的に。


 まずドラえもんの判断。彼は目の前にいるのび太という人間の一貫性を信じる限りにおいて人間である。人間であるということは近代人であるということであり、つまりは内面を持つ。ここでの内面とは規範であり、それは"わたしに内面がある限りにおいて彼にもまた内面があるだろう"という形で機能する(より正確にはその機能の様態が内面である)。ドラえもんドラえもんの一貫性に基づいてのび太の一貫性を判断し、それに相応しく振る舞う。ドラえもんのび太の友人であると同時に教育係であり、泣いて反省するのび太の前では教育係としてのペルソナが前面化せざるをえないだろう。他方、のび太の判断というものもあって、それは上記ののび太の「本音」であり、のび太は彼自身の一貫性に基づいてドラえもんの一貫性を、彼はそういうやつだったからいまなおそういうやつでありうるはずだ、という判断をしている。そして第三に『ドラえもん』というテクストに対する読者の判断。のび太が自らの欲望に忠実に行動した結果道具に振りまわされてひどい目にあいドラえもんに泣きついて反省する、というのは『ドラえもん』の挿話に頻出するお決まりのパタンであり、だけどどうせまた繰り返すのだから本当のところは知れたことではない、という読者の判断においてそのテクストは神話へと大きく揺り戻されることになる。ドラえもんに読み取られたところののび太の「本音」は物語がいつものパタンに収束しつつあることを過去の経験とその蓄積によるドラえもんというキャラクターの内面性についての判断として記述されたものだが、それは読者の感想の代弁でもあり、のび太の「本音」を読み取るドラえもんの一貫性もまた読者が期待、要請したものだということだ。そしてそれはすぐさま「本音では反省していないのび太のパフォーマンスは受け入れられるべきではない」という規範へと連繋し、ドラえもんは唯々諾々とその規範に従いのび太を部屋に置き去りにする。

※作者は1980年『漫画アクション』にも『テレパ椎』というタイトルの作品を発表している。これは「テレパしい」の逆で、というかそもそも「テレパしい」の方が従来パタンの「逆」なのだが、身につけていると他人の考えていることが聞こえるようになる不思議な椎の実を拾う話。この作品でも主人公が他人の心の声を聞き慣れてくるうち次第に対象者が意識で縁取っていない声なき声までをも拾い上げはじめる。この意識で縁取られた思考を記憶に関する用語から案を借用して"宣言的思考"と名付けてみるとしよう(あとで使うかも知れないし)。フィクションにおいてはその宣言的思考は記述されるものに他ならず、よって「本音」は読み取られる=記述されることで宣言的思考として扱われる。テレパスが読むことができるのはこの宣言的思考であり、それはテクストとして記述されたものである。記述されたものは作品世界に登録され原則的には誰にでもアクセス可能である。これは近代小説以降、探偵小説などで培われ読者と共有されてきたフェアネスが規範として機能しているからであり、テレパスは他人の「本音」を言語として作品世界に登録する媒介者として「(わたしがそうであるように)人は内面に真実の声を隠しているものであり、ひとたびそれが聞こえてきたのなら耳を傾けるべきである」という規範をテクストにおいて特権的に体現する。


 さて、肝心の『耳太郎』だが、さっくばらんに書き進めていった結果ほぼ書きたいことは大まかに書けてしまったという感じではある。『耳太郎』はかなり自覚的にメタ・フィクションとして描かれている作品で、それゆえに構成が込み入っていて要約を拒むところがあり、とりあえず筋を追いながら細々だらだらと書いてはいたもののちっともまとまらず、自分の構成力の致命的な欠如に嘆きながらただただ途方に暮れていたという次第。だから思い切って書いてきたほとんどを放棄して特筆すべき一点にのみできる範囲で言及しようと思う。街外れのプレハブ小屋にこもって投稿漫画を描いている男子三人女子一人の四人グループ、その中で一人だけどうしても調子が出ない耳太郎は頓着が希薄で隠しごとを嫌う性格から堂々と仲間の前で自らの不調を表明し、さっさと作業を中断して気分を転換するべくプレハブ小屋の屋根によじ登る。そこにとつぜん漫画のアイデアが天啓のごとく頭の中に降って沸いてきて――というのが事のはじまり。そこで張り切って漫画の執筆を再開する一方、ある日ふとしたことの積み重ねから他人が口に出していないはずの言葉がなぜか自分にだけは聞こえているということに気がつき、それをテレパス能力だとさして何も考えずに喜びをもってあっさり受け入れた耳太郎は自らの能力をあくまで消極的にではあるが日常生活の中で活用しはじめる(その活用はあまりに些細なので、はじめは耳太郎の能力を知らない第三者も「単にちょっと勘のいい奴」、「先まわりしてよく気の付く奴」程度の解釈でじゅうぶん日常との帳尻を合わせることができた)。そして事件。耳太郎がプレハブ小屋の屋根の上で天啓として授かったアイデア、ヴィジョンに基づいて描きつつあった漫画「テレパスくん」と同じタイトルの漫画を仲間の内のひとり"木常くん"も描いていて、しかも耳太郎本人を含めて両者の原稿を読みくらべた四人が偶然の類似の範疇を大きく超えていると判断するほど「似ている」ということが明らかになる。耳太郎の頭に飛び込んでくるいくつもの声。そういえば木常くんがプレハブ小屋で漫画のアイデアをみなに披露していたとき(前述していないがその描写はきちんとある)耳太郎は屋根の上にいたじゃないか、まさかそこで盗み聞きしたアイデアを……。その声を真に受けた耳太郎は――もちろん彼に真に受ける以外の選択肢はない――みんなぼくを疑うのか、ぼくをそういう目で見ているのか、と激昂して仲間を難詰するのだが、彼らは驚いて誰もそんなこと言ってないじゃないか、と釈明するし、実際に彼らは何も言ってはいない。ただいつものように耳太郎にそう聞こえただけなのだが、ここで注意しなくてはならないのはあくまでテクスト上では仲間たちの心的独白がそれぞれ誰に帰属するものかということを示すために人物の頭上からほわほわほわーと各吹き出しに向かってちぎれた尾っぽのような二、三個の小さな雲が描かれてはいるし、漫画の規則上その心内言語の記述は指示する人物と無条件に紐づけられるはずなのだが、テレパス能力を耳太郎が有しているためその規則はいったん無化され、耳太郎の頭に直接聞こえてきた声として再度テクスト上に配置されている、ということ。見た目は同じ記号上の規則に則っているようでもその表象上の意味はまったく異なる。作者と読者の間であらかじめ共有されているはずの漫画テクスト上の規則が視点人物がテレパス能力を有しているという事実によって再編を余儀なくされる。もはや彼らが実際にそう思ったかどうかは問題ではない、ただ耳太郎にそう聞こえたし、そう聞こえたと耳太郎が思ったのだから彼らは実際にそう思った、ということだ。


 ところで耳太郎が描いていた「テレパスくん」がいったいどういう漫画なのかということは劇中で耳太郎自身が説明してくれている。

テレパスくんはふとしたはずみで超能力を身につける。最初は大よろこびでその力を使っていたが……。やがて……、昼も夜もまわり中の人の心の声が聞こえてきて、うるさくてうるさくてノイローゼになっちゃう》


 ここまで読んできた読者にとってこの"テレパスくん"を"耳太郎"という名前に置き換えればそのまま『耳太郎』という作品のシノプシスになるということはほんとど自明のことであり、とすれば仲間(の心の)内で「テレパスくん」の盗作疑惑が持ち上がった段階ですでに上記要約でいうところの三行目の展開に足を踏み入れているということになる。そして実際に物語はそのように進行していく。耳太郎がプレハブ小屋の屋根の上で天啓として与えられたのは木常くんが「テレパスくん」の構想を他人に向けて言語化するにあたって思念上展開していた具体的イメージ群の諸断片であり、またこの目下上演されているところの『耳太郎』という漫画作品のシノプシスでもあったというわけだ。その時点で彼に自らがテレパスであるという認識はないし、耳太郎の頭の中に突発的に沸いたとされる漫画アイデアが具体的に描写されることもない。だが先述したようにテレパスが存在することで作品世界の規則は書き換えられるのであり、本人にその自覚はなくとも耳太郎はすでに木常くんの思念を読んでいる。それは記述されていないから宣言的思考(ほら使うところがあった!)とは呼べないが、しかし耳太郎はご丁寧にも漫画原稿に落とし込むことでそれを物質化し作品世界へと登録する。「テレパスくん」はテクスト内テクストであり、テクスト内テクストが存在することでテクスト内テクストが存在するテクストとして作品世界の遠近法が再定義される。それはいわば鏡のようなものだが、ひとは鏡ではなくあくまで鏡に映った鏡像を見るもので、その鏡像が再現する世界にはその鏡自身が欠落しているのだからそれは不完全な鏡であり、その不完全さをもって鏡は鏡であるはずだ。作品世界にありながらその上位の審級(シノプシスというメタテクスト)にもアクセスできる特権的存在であったはずのテレパスとして書き換えられるべき作品規則に対して自ら帳尻を合わせる格好でテクスト内テクストを世界に登録してしまった耳太郎は、不完全な鏡の存在によって階層化された作品世界にあって(かつて筒井康隆が用いた言葉を借用するなら)登場人物としての品位を下げてしまったのだ、ということなのだろう。ゆえに彼はひたすら翻弄されるだけの存在でしかない。


 ……ところで『耳太郎』は表象レヴェルでは決してこのような動的な作品ではなく、ちょっとやそっと突いたり揺さぶってみたところで決して組みほどけない、ある意味でページ逆算的とも言えるようなきわめて高い緊密さを具え(それゆえに耳太郎は道化でしかあり得ない。この非情さ、突き放しこそたしかに藤子F作品のパースペクティヴだろう)、であるがゆえに細部間の結びつきを等閑視してでも特筆すべき点を抽出するため因果の糸をほどいて擬制的に再構成せざるを得なかったのだけど。