『アイドルマスターシンデレラガールズ』のこと(たぶん)

ところでシンデレラにとってのお城というのは漠然としたきらびやかなイメージでしかなく、むしろ関心事はこの生活からの脱却や自己改革の方にある。綺麗なドレスがあるから彼女は家の外に出ることができるし、カボチャの馬車はお城へとつづく階段のふもとまでは運んでくれるが、そこから先は自分の足で登っていかなくてはいけない。だからこそシンデレラプロジェクトの面々は「お願いシンデレラ!」と歌ったのだ、天や神に祈るのではなく、目の前の魔法使いにすがるのでもなく。なぜなら彼女たちはすでに綺麗なドレスやカボチャの馬車は与えてもらっているのだから。魔法使いはシンデレラにとっては夢=欲望の所産でしかなく、夢見ることは夢の始まりであり、すなわち夢見た時点でもう夢は始まっているのだ。


他方、王子様はシンデレラという具体的な対象を求めて階段を降りていく、彼自身は何ら自己変革を迫られることなく、もちろんその必要もないまま聖杯の探索だけに血道をあげることができる。彼女たちのライヴ場面が最終回においてもなお回想イメージや舞台装置によって寸断されていたことを思い出すべきだろう。ステージに立ち歌い踊る彼女たちの具体的な顔、姿を観に来た観客=男たち(当然ながら現場には女性も大いにいるのだろうが、あのアニメでそのことが特に考慮されていない、あえて埒外に置かれているのは合いの手の声が男一色であることからも明らかではないか)に対して彼女たちの見る夢はそのステージ上にはない……ということはあの横一列並びのフォーメーションにもあらわれている。「お願いシンデレラ!」と彼女たちは階段の途中で歌う。この一歩をさらに踏み出す勇気をください。横一列フォーメーションでは階段を登れないから、めいめいばらけながら、互いを待ちつつ、ときには上の段から手を差し出したりもして。シンデレラは無我夢中で階段を登り、登ることでシンデレラになった。魔法使いに与えられただけだったはずの、装飾性が高く、ただでさえ履きつけないハイヒールで。魔法はそうやって彼女の身体の一部になったのであり、だからこそ魔法が解けるからと慌てて階段を降りるときに脱げたガラスの靴は、刻限を過ぎてもなおガラスの靴として王子様の手に残ったのだ。そしてシンデレラに魅入られた王子様にとってそれは呪いとしても機能するだろう。階段の上のお城に住んでいるはずの王子様はいまだ王子様として振る舞いながらも地へと降り立ち、そして従者の手によるとはいえ跪いてシンデレラにガラスの靴を履かせた。ガラスの靴を軸に両者の上下位置が逆転し、その時点で王子様は王子様でなくなり、シンデレラにとっての舞台装置となったも同然なのだった。


最終回、プロデューサーは階段の下から島村卯月を見上げる。彼女たちにドレスと馬車を与え、階段の上から手を差し伸べていたかに見えたプロデューサーは、しかし王子様ではなかったし、魔法使いの手先ではあっても彼自身が魔法を使えるわけではなかった。そして灰かぶりの夢を現実にする大きな一歩を踏み出す機会を与えてくれた媒介であるという意味では、彼はたしかに王子様であり魔法使いでもあったのだ。だがアイドルにとっての王子様はステージの向こう側にいるのだし、"ステージの向こう側"というイメージの源泉はあくまでファンたちであって、そこにプロデューサーの居場所はない。王子様のように舞台装置であることもできない彼が次こそは階段の下で勇気を振り絞る番なのだ。

もう一文だけ続き

もちろん千葉サドルの筆致が連載を重ねる中でストーリーの展開に伴う生成変化をしていて、それ自体は『がっこうぐらし!』に限らず連載漫画作品にあってはよくあることではあるのだけど、あのときゆきが「美人になった?」と言ったときに含意していたのは「大人っぽくなった?」であるというのは明らかで、「大人っぽくなる」とはすなわち「子供っぽくなくなる」ということであり、また美人なるものはしばしば神秘的だの憂いを帯びているだのと第三者から評されるもので、すなわちそれは外面からは内面を推し量ることができないということなのだけど、そこがあらかじめ「人間には内面がある」という了解がある世界でなければ内面を推し量るも推し量らないもなく、それは少なくとも外面と内面が一対一対応しているかのような"記号化"とは無縁であるというのみならず、表象構成のルールが変わったということ、作品主題になぞらえて言うなら、高校を卒業するということは学校において演じられてきた役割に一段落をつけるということであり、とはいえ自主的に卒業式をしなくてはならない学園生活部の面々においては卒業というのは単にその時期が来たら天から降ってきて自動的にそうなるような類の行事ではなく、いやそういう行事であったからこそ彼女たちの擬似的な学校生活において欠かせないものだったのであって、それは朝や帰りの挨拶であったり外出時に先生に提出する書類であったり遠足や体育祭であったりも同様なのだけど、そうであるがゆえにいっそう卒業の持つ意味は二重化せざるをえないわけで、ことゆきにとっては、崩壊した教室でその崩壊をなかったことにしつつすでにそこにいない先生と「学校ごっこ」というそれ自体がごっこ遊びである"教室"の風景を演じるという二重性を生きていたゆきにとっては卒業とは後戻り不可能地点を踏み越えることでなくてはならなかったはずで、ゆきの「美人になった(→大人っぽくなった→子供っぽくなくなった)?」という自己評価の言葉はそのことに対する自覚をうかがわせるものであり、「ゆきが美人になる」という事態は作者の絵柄変化のみに還元できることではない……ということを前回書きたかった気がした(がすでに後の祭りだった)のでした。

『がっこうぐらし!』について、あるいはゆきが美人になるということ

がっこうぐらし!』第31話、荒廃したコンビニに寄ったくるみとゆき、ひとりで裏を見に行っているあいだにてきぱきと床の掃除をしているゆきの背中を見て、くるみは頭の片隅に置かれていた疑念をおずおずと唇に乗せようとする。「……なぁ」「おまえ」「最近ちょっと…」やや二人見つめ合って、「美人になった?」「とか?」とやんわり頬を染め後ろ頭をポリポリしながらふやけ顔で応じるゆき。もちろんここで「はぁ!?」と応じるのがくるみなわけで、案の定そこで話はうやむやになってしまう。なってしまったのか、なってしまうような方向へと差し向けたのか……外面的には判断できない。実際これまでも事態の進行に応じてゆきの"揺らぎ"の描写、あるいはそこから身を引き剥がすかのように自らを鼓舞する様子がところどころに挿入されてきたし、くるみやりーさんはその一部を目撃しまたそこに立ち会っているわけで、現在はりーさんの"揺らぎ"にフォーカスが移行している以上そのことに対する疑念を読者の代行として口にするのはくるみの役割となるだろう。


 ときにカメラはゆきの見ている主観風景をとらえるという形でゆきに寄り添ってきたが、ゆきの内面にまでは立ち入ることはなかった。アニメ版はそれを踏まえたうえで、一話のラストにガラスの割れた窓をわざわざ閉めるというゆきの(内と外を隔てるという機能を奪われたものを習慣行動をなぞる形で作動させることで日常性を回復させようとする)(穏やかならぬ状況にあってはともすれば異常とも見られかねない)行動のあと、そこから吹き込んだ風を受けて窓の外を眺めるという動作を呈示している。窓という人工物とそれを閉めるという人間の営為によって遮られるはずの、自然現象でありそれ自体は統御不能な、いわば人間の外からの力である風がゆきの顔に否応なく吹きつけ、その風による物理的接触が半ば反射として促した彼女の主観においては確かに機能しているはずの窓に視線を向けるという行為が同時にその外を、力の起源である世界をまなざす行為ともなる。窓は象徴的には世界=外から自らを隔絶するものであるが、機能的には世界=外へと接続する扉になっているのだった。


 ところでアニメ版では一話からみーくんと太郎丸が学園生活部の一員となっている。まあこれに関してはOPテーマ歌唱を担当するユニットが学園生活部という名前で劇中のその構成員四名の声優からなるためはじめから面子を揃えておいたほうが都合がいいという事情もある気がするし、一話で仕掛けられていた(しかし原作コミックがすでに五巻も刊行されていたため、ニトロプラスという名前が蓄積してきたイメージと相俟って視聴者とのいささかわざとらしい共犯関係めいたものを当てこむかのような)サプライズ=引きを活かすためにも有効ではあったのだろう。しかしそれによってみーくんとの邂逅を描くために途中で時系列を組み替える必要性が生じ、しかもそれはどうしたって数話にわたらざるをえないため関係性変化の機微やグラデーションはきわめて描きづらくなっている……というか、端からほぼ放棄されていると言っても差し支えないだろう。そこは絵や挿話によって丁寧かつよどみなく(あてがいぶちのものとして)見せる方針が一話や二話の構成からうかがえるし、キャラクターも割とさくっと記号化されている部分がある。その影響をもっとも蒙ったのがめぐねぇで、漫画版では早々に姿が描かれなくなるにもかかわらずアニメ版では存在感薄いネタを繰り返しながらまるで自覚のない死者であるかのようにゆきの視界に留まりつづけるし、茅野愛衣もまたそのような演出のもと芝居をしているように見える。そのような世界でゆきは果たして"美人"になれるのか……と、唐突に思うのは、31話でのくるみとゆきの応酬がじつは噛み合ってなくもないように見えるからだ。確かにゆきは"美人"(の表象をより多く有するよう)になっている。表情や行動がデフォルメ的に描かれ、またそれに相応しい身体のパーツを具えていたゆきの輪郭はシャープになり、顔に対して眸の占める割合が小さくなり、全体的に描線のタッチに湿度が増している、すなわち情報量が増えたということであり、それは明らかにゆきの"揺らぎ"と相即して進行している現象だろう。情報量が増えたからこそキャラクターの外面からその内面を推し量ることが困難になる。もちろん美人になるということは「大人っぽくなる」ということでもある。なるほど、だからこそアニメ版一話の放送時点でこの作品を「アンチ日常系」と定位する言説が一部で流布したりもしたわけで(「日常のベールを剥ぎ取られた荒廃した世界においてなお自らの死=成熟の可能性から目をそらすキャラクターが……」みたいなノリで。多分。読んでないけど)、千葉サドルの筆致によって漫画版では枠外に押しやられていた危うさをアニメ版はしっかりと保存してしまっているということなのかも知れない。

『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』についての補記

アクセス記録を見ていると以前からウルトラ・スーパー・デラックスマンという単語の検索によってこのブログに辿り着く例が定期的に観測されるので、ちょっと以前書いたことの補足でもやっておこうという気持ちに今にしてようやくなった。


 全集の解説で山田正紀が書くようにこの作品の主眼が《「正義」が本来的に持つそのいかがさわしさ、欺瞞性》であるとするなら、あのデウス・エクス・マキーナ的というか、いささか唐突すぎる句楽兼人の死はどのように受け止めるべきなのだろうか。句楽兼人は一人の人間として死に、葬られた。それは彼の「正義」に対する志向がルサンチマンに端を発する暗い欲望であったことからも必然であったろう。正義のヒーローの素質なき人間がヒーローになってしまうということはもはや悲劇には留まらぬ、ちょっとしたカタストロフであり、その排除は全人類規模の課題となる。だからこそそれを果たしえた唯一の存在である癌細胞は《ウルトラ・スーパー・デラックス癌細胞》と称されたのだ。特別な名前が冠されているからといってそれがなにか特別強力な癌細胞であったということはない。句楽兼人が一人の人間として死んだのなら、それはどこにでもある、何の変哲もない……というのも変な言い方だが、誰にでも発症し、誰をも確実に死に至らしめる病気でなくてはならなかった。もちろん癌はそういう病気ではない。だがこの作品が発表された1976年段階ではそういうイメージでもって社会では遇されていた、ということはその二年後に発表されたスーザン・ソンタグ『隠喩としての病』にも書かかれている。だとするとこの作品はただ物語に幕を引くためにそのような癌神話に安易に乗っかっだけなのだろうか?


 そうではない。人助けと称して暴力に溺れるウルトラ・スーパー・デラックスマンは社会悪であり、社会悪を駆逐するのは正義のヒーローの役割である。そして実際に社会悪であるところのウルトラ・スーパー・デラックスマンの命を奪ったのは悪の隠喩の担い手であるはずの癌細胞なのだ。いや、実際のところ癌細胞が殺したのは一人間である句楽兼人にすぎない。だが句楽兼人が死ぬということは同時にウルトラ・スーパー・デラックスマンが死ぬということも意味する。たとえばスーパーマンなら現場に飛んでいけば野次馬たちが、あれは誰だ、鳥か、いやスーパーマンだと指差しながら持て囃してくれるだろう。スーパーマンという名前は自然発生的に大衆の口端にのぼり、口から口へと伝えられてそのたびに正義の味方、代行者というイメージは強化されていく。だがウルトラ・スーパー・デラックスマンはちがう。彼の行使する正義はあくまで一方的なもので、それはどこまでいっても感謝ではなく恐怖によって遇されるほかない。彼の暴力はどこまで行っても具体的で、イメージの入り込む余地などなかった(ウルトラ・スーパー・デラックスという過剰形容の空疎なことよ!)。だからこそ、悪のイメージを一手に負う癌細胞は句楽兼人を死に至らしめることによってウルトラ・スーパー・デラックスマンを世界から駆逐し、そのことによってウルトラ・スーパー・デラックス癌細胞という称号を引き継いだのだ、不吉どころではない、いまだ陰惨で忌々しい記憶を喚起する血なまぐさい称号を。


 これほど苛烈なイメージ批判があるだろうか?

登場人物が作者に直接異議申立てをするということ

放課後のプレアデス』の話をしているときふっと風が吹きつけた拍子に「でも別にキャラクターは視聴者を楽しませるために生きているわけではないからね」と口にしてしまったのはどこかでうっかり目にしてしまった『放課後のプレアデス』評に対する苛立ちが薄く堆積していたからなのかも知れず、しかしそれにしても奇妙な言いまわしだなあ、と我がことながら思ってしまいもするのだけど、やっぱりそうとしか表現できない感触というものがあの作品には通奏してあったし、それはほとんど異議申立てといえるほどの激しさを帯びていたとも思う。『放課後のプレアデス』というアニメは、それが果たして"えすえふ"か"ふぁんたじー"か、などという受け手本位のお粗末きわまりない手遊びに安穏と興じて事足れりとしていられるような作品では断じてないだろう。そしてそのこととはあまり関係なく、いや関係ないはずもないのだがあくまで呼び水は呼び水のまま措いておいて、先日読んだばかりの西寺郷太『噂のメロディ・メイカー』のことを今は思う。この作品はノンフィクションを下敷きにした小説と銘打たれており、しかもそのノンフィクションに相当する出来事(「ワム!ゴーストライターをしていたという人物がいて、しかもそれは日本人!?」)の進行中にメールマガジンで小説として定期的に連載発表されていたという事情もあることからそれをあらかじめ読んでいた取材相手が挨拶代わりに「あれ読みましたよー」的に話題にする局面があったりもしてさながら『ドン・キホーテ』といった風情で、とはいえ『ドン・キホーテ』と違って西寺郷太はその読まれたところのテクストを物した張本人でもあり、少なくとも相手にその認識があるからこそ西寺郷太に向かって「読みましたよー」ということを知らしめるのだけど、小説の中で「読みましたよー」と言われている西寺郷太は"書かれた"存在であり、同じく書かれた存在であるその取材相手が話題にしているところの「小説」はあくまで書かれた存在である西寺郷太が劇中で書き水道橋博士メールマガジンに発表している連載小説を指すのであって、現在書かれつつある……かつて書かれつつありすでに書かれつつない、今また書かれつつある体で読まれつつある諸記述の生成過程の只中にある西寺郷太という視点人物とはやはり属する階位が異なっているとは言えるだろう。


 ほどほどの一般論として、作者がテクスト内部に作者として登場することは「どれだけ」可能なのか? という問いはありうるだろう。テクスト内部に現れた作者は作者という概念が受肉した分身でしかありえない。枠線を侵犯しようが自らを作者と名乗ろうが"書かれた"存在であることに変わりはないわけで、せいぜいがちょっと不真面目な登場人物というくらい。そもそも自分と同等の存在階位しか有しえない一登場人物がこの世界の創造主を名乗ったところで狂人扱いされるのが関の山だろうし、それを真に受けてしまったら下手するとその人までもが狂人扱いされかねないではないか(山本直樹『まかせなさいっ!』では酔っぱらいのおじさんが唐突に「神」を名乗って登場し、順当にただの酔っぱらいのおじさんとして処理される。"彼"はその場にいる登場人物全員を指差しては死の不可避性を指摘してまわり、もちろん誰も真には受けないのだが、作品はそこで終わるのだった)。


 取材相手があらかじめ西寺郷太の小説を読んでくれているということ。それは事情(これまでの道のりや周辺事情、取材者のスタンス)を一から説明する手間が省けるというのみならず、その事情を承知しているということを作者に向かって開陳することそれ自体が、取材を受けることによってゆくゆくは小説の登場人物になってもよいという合意のサインとしても機能している。パラドクシカルな物言いをすると、登場人物にわざわざ登場することの同意を事前に取り付けている小説というのはあるまいが、取材を元にしたノンフィクションならばその辺の根回しは欠かさないはずだ。もちろん小説はフィクションだから同意を取り付ける相手はいないし、書かれなければただ書かれていないことにすぎないので同意を取り付けたも取り付けてないもなくなってしまうし、書かれてしまえばやはり書かれてしまった以上同意を取り付けるも取り付けないもなくなってしまう。そもそも相手以前に「誰」が取り付けるのか。作者、だとそれは単にモデル小説の話になってしまう。が、作者がその役目を負わなくて誰が負うのだ、という気もする。だからこそ数行前"ゆくゆく"という副詞を用いたのだった。今はそうではないがいずれそうなるだろうという確実性の高い予感。「読みましたよー」という言葉はたしかに一登場人物である西寺郷太に向けられている。そこで話題になっているのはすでに書かれた小説についてが半分、そしていずれ書かれるであろう(そして取材相手もきっと登場しているであろう)小説についてがもう半分。そのもう半分の小説の作者は西寺郷太ではあるが"この"西寺郷太ではない。


 小説の終盤、ほとんど読みはじめたときから読者にとって明白なこの作品の帰結として、さんざっぱら回避され延期されてきたラスボス、ワム!ゴーストライターであるとされる日本人、騎士物語における聖杯たる"ナルショー"との邂逅がカセットテープというメディアを媒介して果たされることになる。そしてその中でナルショーはこのような言い方をする。
《まぁ、あなたの小説を面白くするために、僕は生きてきたわけじゃないんで》


 当然ナルショーもまたあらかじめ西寺郷太の連載小説を読んでいる。だがナルショーが自分の人生を捧げることを拒んだところの"小説"はまだ書かれてはいない。ナルショーはそのいまだ書かれざる小説に登場することに同意をしたうえで、西寺郷太というすでに書かれた小説の作者でありかつこれから書かれるであろう小説の作者に向かって、作者というものの作者であるがゆえに登場人物に対して不可避的に生じる傲慢さを指弾したのだ。これこそ登場人物が作者に直接異議申立てをした瞬間であるとは言えまいか。ナルショーは最後の最後で西寺郷太と対面することを避け、カセットテープに自らのメッセージを吹き込み、それを第三者に託した。ナルショーの西寺郷太(という受け手であることを期待された仮想上の受け手)へのメッセージは宙空へと向けられたあと磁気テープに刻まれ、一度そこで回路は閉じる。そしてそれは第三者の手によって然るべき受け手のもとに運ばれ、さも目の前でメッセージを発しているかのように再生されることで回路は再接続されるのだ。そのような手続きを経て思い出されるのは、作者はまた読者の映し身でもあったという歴史的な事実なのだった。