「桜の開花は目前に迫っていた」というこの小説?について何事かを言う材料は目下のところこれそのものしかなくて、ある程度もっともらしいことなら言えそうな気もするけどそれを避けて何かを言おうとすると途端に難しくなる。やっぱりそれは本文にも書いてあるように「あの二人」の合作に対するある種素朴な返答として書かれている面があるからだろうが、どうもそれだけではなくこの小説の書き方自体に掴みどころというか手応えらしいものがない。そういう書かれ方をしている。


 「書くことの不自由さ」というものがあるとして、それを感じるのは「AはBである」という文を書いて、それだけで済ませることができずにつづけて「しかしCかも知れないしBだからといってCではないということではないしひょっとしたらDでもありうるしそういうひとがいることも知っていてそのことを無視する気も退ける気もないがやはりここではBと言いたいのだけどBと言う行為そのものではなく言ったという事実を重視していることをどうかわかってほしいとわざわざ言うなんてちょっと情けないのであまり言いたくないのだがそのことをふまえたうえでひとまずほのめかしてはおきたい云々……」という、あまりに粗雑な書き方だけどたとえばこういうことを付け加えたくなるとして、しかしそれをそのまま引き連れてはいけないというときだろう。多くの場合、前の文章は次の文章へと到るステップでしかなく次々と置き去りにされてしまう(これが巷で言われるところの「論理性」の正体だと思う。もはや「論理的」という言葉をこの次元で用いてもしょうがない)。保坂和志の小説はたしかに「わかりやすい」のだが、それは逐次的な意味で文章としてわかりやすいのであって、言葉のバリアフリーというか小説内の段差を段差として意識させないような作りになってしまっている。それはそういう書かれ方をしているのではなくそうなってしまっている。『生きる歓び』や『カンバセイション・ピース』においていままでエッセイで書かれてきたエピソードや考えが小説に組み込まれ、読者はそれらを実感をもって手許にたぐり寄せ、段差だらけの小説をひょいひょいと渡っていける。だから保坂和志の小説はときに過度に理屈っぽいと感じるし、またときに「ほのぼの」「退屈な日常」としか感じられないときもある。「エッセイで十分」でもなく、「ひまつぶし」でもない保坂小説の読み方。それが読み手ばかりの問題ではないことは「桜の開花は目前に迫っていた」というちょっと面倒くさい小説を読むことでよりはっきりとする。


 ところで保坂和志を読んでいてもっとも感動する場面……ということでまず思い出すのが『カンバセーション・ピース』の後半、風邪で寝込んでいた「ぼく」が階下へ降りていって台所で料理をしていた綾子とかわすチグハグな会話で、あまりに感動してちょっと震えてしまう。端的にうまいのだけどそれだけではなくて、これまで「ぼく」が庭の水撒きやら野球のデーゲームやら幽霊やらにかこつけて、というかそういう事実の流れの中であれこれぶつくさ捏ねくりまわしていたことがそういう言葉を用いることなくただ会話をしているだけの時間の中でリアリティとして立ち上がってくるのがわかる。そのあと登場人物たちがわらわらと食卓に集まってきて好き勝手なことをやっているところもひたすらよくて、それは幸福ではあるんだけど日常的なものというよりは小説の幸福感という感じで、スリリングでさえある。だけどやっぱり綾子との会話の場面にこだわりたくて、もし「いままで読んだ小説からお気に入りの場面を三つ挙げよ」と問われたなら(しかし誰から?)迷わずこの場面を三つの中に入れてしまうだろう。


 綾子との会話の場面はぼくの中でそのまま戸張大輔へとつながる。百年後、はじめて彼の音楽を聴いてもぼくは何の違和感もおぼえないだろう。そのことを百年前のぼくが実感していることをたしかに感じながら、百年後、ぼくはまさにいまこの音楽を聴いている……戸張大輔の音楽を無理やり言葉にするとこのようにわけがわからなくなるけど、音楽自体は特に複雑ということもない、聴けばたちどころにわかるという類いのものだ。たぶん彼の音楽はいつ聴いても新鮮なのだと思う。青木淳悟「クレーターのほとりで」(『新潮』十月号)のテーマはこれしかないと思っている。