実家の猫が戻ってこない。いなくなってそろそろ半月が経っていて、しかもいなくなったのは台風が直撃する二日前、妹が拾ってきたのが14年くらい前だからかなりの高齢ということになるんだけど、ここ一年以上日中はずっとどこかの物陰にいるらしくほとんど姿を見せないためたまに帰ってもほとんど顔をあわせることがなく、正直「いてもいなくても同じ」で、だから今回戻ってこないのもただそれだけのことで、しかもいまは実家から飛行機で一時間弱の距離という程度には離れているのだからなおのこと「同じ」なんだけどそれはまったく否定的な意味じゃない。


 実家の猫が生きているか死んでいるかを決定することはできなくて、生きているはずと信じることが出来れば時間のあるときにでもあたりを捜して歩いたりするだろうし、すでに死んでいるんだと決めてかかり忘れてしまってさえいても不意の出会いの準備はとうにできていて(ここでふと頭をよぎったのは「拉致問題」とか「同級生2」とかなのだが……)、やっぱり猫の声がすれば耳が向くし、視界の隅で小さなもこもこが蠢けば視線が傾く。知らない猫は町中にいくらでもいて、その中にはやはり自分家の猫はいないんだけど、死んでしまったのだから当たり前だしそもそもここは実家から何百キロも離れている。だから期待しているとか希望を捨てていないとかそういうことではなく、単に反応してしまう。ただの猫好きといわれればそれまでだし、猫と生活していると自然にそうなってしまうものだけどいままでの「それ」と猫が戻ってこなくなってからの「それ」はちょっとちがう感じがする。どうちがうかを徹底的に考える気はいまはないけど、猫と長く暮らしていると家の中のあらゆるところに猫の気配が漂うようになって、晩年(!)猫が姿を見せなくなっても「同じ」だと感じていたのはそのせいもあるんだけど、猫が戻ってこないことを涙声の母親から電話で聞いたときからぼくの部屋にも猫の気配を感じるようになった。そしてその気配は少しずつ部屋から漏れ出していっているように感じる。


 死んでも心の中に……とかそういうことじゃなくて(別に泣き暮らしているわけではないのだし)、もう少し身体に直接訴えかけてくるような、そう言えるほど積極的なものではないけど、漠然としていて、でも確乎たるもの。きっとこれは実際は「生きているか死んでいるかわからない」状態なのだからだと思う。母親は「死期を悟って……」と言っていて、もちろんそういう話は知っているし、台風が二度も三度も直撃するような状況で老齢の飼い猫が生きているというのはやはりちょっと考えにくく、だからこそ死んでしまったのだろうとは思っているのだけど、でもそれを確認することができない限りそれは事実とならない。そしてある種の事実としてぼくはいまその猫の微弱な気配の中で生活をしている。ひとに話すと気のせいだとか言われるかも知れないけど、そう決め付けてしまうのはちょっと人間の視点でものを見すぎなのではないか……。