子供のころの写真を見てもまったくおぼえていないこととおどろくほど鮮明におぼえていることがあって、それも写真を見てから記憶が喚起されたということでもなくて見る前からたしかにおぼえていて、とはいえ頻繁に思い出していたというわけでもないし実際に思いを巡らしたことが一度でもあったかどうかさえ定かではないけど、写真を見ることでやはり鮮明におぼえていたんだということをあらためて認識するという感じ。自分が小学生のころに父親が建てた家というのがちょっと変わった造りをしていて、まず玄関を入ると正面に階段があって、左にぐにゃりと湾曲しながら二階へと伸びている。向かって右へいくとお座敷、左へいくとリビングに繋がっていて、お座敷へ向かっているとさらに右手がわに書斎へと繋がる通路があって、そこを抜けるともうお座敷なんだけどそのすぐ側にトイレがある。リビングのほうへ向かうと左手がわに台所へと通じる扉があり、リビングの扉を開けると十畳以上の空間が広がっていて、左はシステムキッチンのような形で(とはいえあくまでそのような形というだけでシステムキッチンではなかったが)台所に、右はふすまをはさんでお座敷に繋がっていて、前面はすべて窓で覆われ、外は松の木や柿の木がひしめいていてところどころに水仙がその季節ごとの姿で点々と散らばるように生えている。ぼくの記憶の中ではこのリビングには生活感のかけらもなく、それどころか到るところにゴミやら細々とした生活用品やら有用無用さまざまのものが積み上げられていて、おそらくはマンション建設による取り壊しのため一時的に引っ越さなくてはならなくなったときの、まさにその寸前のイメージなんだと思う。この家のことを考えるとぼくはなんとも言えない気持ちになる。さびしいとかもったいないとかそういう感情ではなく(そういう感情がまったくまじっていないとは言えないだろうけど)、あえていうなら「なぜ故郷に帰ってもこの家は存在していないのだろう」という不思議さで、そう書きながらまさにいまぼくはこの家に呼ばれているような気持ちになってきている。

 いま唐突に「家に呼ばれる」という言い方をしたけど、その唐突さは大学生のころに読んだ内田善美星の時計のLiddellやそれから数年後に読んだ大島弓子「つるばら つるばら」に準備されたものだ。どちらも「家に呼ばれている」としか表現しようがない(と読んでいるときにぼくは受け取ったのだが、「つるばら つるばら」を読みはじめてすぐに星の時計のLiddellを思い出し、それに多少引きずられて「つるばら つるばら」を読んでしまったのかも知れないが読み終わったあとにはもう星の時計のLiddellのことはおぼえていなかった。基本的にまったく異なる手触りのマンガなのだ)感覚から物語がはじまり、必ずしもそれが求心的な役割を果たすわけでもないけど(特に大島弓子の方は)その感覚は底のほうで最後まで持続される。たしか主人公たちは実際に家に呼ばれるような夢を見るのだったと思うがぼくは夢は見ていない、というか夢を見たことでそう感じたわけではない。そしてぼくは同時にその呼んでいる家がかつて存在していたことさえも不思議に思いはじめている。そのとき決まって浮かんでくるのは二階のふた部屋ぶち抜きの子ども部屋や風呂場やほとんど両親が揃って寝るのを見たことがない寝室ではなく一階のリビングの生活感のまったくないただ乱雑にものが積みあがっているだけの空間なんだけど、実際にこういう光景を見ているかどうかは実はわからなくて、どうやって積みあがったのか、それからどうなったのかということをぼくはまったく思い出せないし、そのように手の触れることの出来ないものとしてこのイメージはリアリティをもっているように感じる。それゆえに厄介だ。