時間と空間を切り離すことは出来るのだろうか。1秒、2秒、3秒……と刻々と進む時計の針を見ているだけでひとまず時間という概念を具体的に視ているような気分にはなれるけど(たとえば「いまは五分後の五分前だけど十二分後の二十分前からすると八分後だ」という操作主体の繰り言だってやっぱり時間の話になる)、空間というのはとりあえずの基本単位がないからつかみどころがない。時間は秒や分や時間だといわれればひとまず(面倒くさいから)納得はできても空間はメートルやキロメートルや畳であるといわれてもちょっと納得しがたい。ところで昔の家のことを書いていると昔の知り合いのことを思い出してしまった。故郷(なんだかこの字面は郷愁や感傷を喚起しやすい気がするのでほかにしっくりくる言葉がないかと思うけどいまは思いつかないのでこのままにしておく。つまりはhome townのことで、具体的にはTwin Peaksのような町の「見え方」を思い浮かべてほしい)に置き去りにしてきた幼馴染や近所の遊び仲間や学校の同級生たちのことだ。もちろん実際にぼくと彼らは置き去りにする/されるという関係にあったわけでもないし、互いにほとんど無関係に故郷に留まったり離れていったりしていてぼく自身も彼らがいまどこでどうしているかなんてほとんど知らないけどだからこそ「置き去りにしてきた」と感じる。「ここ」で感じる一秒と「あそこ」で感じる一秒は同じ一秒かも知れないけど「ここ」と「あそこ」が別の空間である以上はやはり同じじゃない。そういう切り離せなさをもってぼくは彼らを「置き去りにしてきた」と感じているわけだが、しかし空間は場所に縛られないともぼくは思っていて、だからこそぼくは彼らを「置き去りにしてきた」と感じているのだということはとても説明しにくいことだけどとりあえず言ってはおきたい。


 古い遊び友達のことを考えるとそのひとりひとりと組みになってファミコンスーパーファミコンのゲームソフトが浮かんでくる。具体的に羅列するなら丸木くんは『バンゲリング・ベイ』、柏村くんは聖剣伝説、小川くんはドラゴンクエスト2』熱血硬派くにおくん、青木くんはツインビー、岡島くんはイーアルカンフー『まじかるタルるーとくん』、安原くんは貝獣物語、石田くんはワギャンランド……とまあよほどゲームばかりやっていたのかとも思うけど別にそうではなく、また彼らとの思い出がゲームしかないということでもない。いまはマンションになっているけどもともと我が家が建っていた土地はちょうどT字路の頭の部分にあって、玄関から出た正面がちょっとした坂になっていてその先百メートルほどずっと両側に民家が並んでいるんだけど、その玄関から見渡した先百メートルほどに並んでいる家のほとんどの間取りをぼくはおぼえていて、ついでに言うとそこには習字教室もあってぼくはそこにも通っていたし、その習字教室の隣に住んでいた石田くんが引っ越していったあとにそのまま入ってきた小宮くんの家にも中身は同じ家だけど入ったことがあったと思う(数年後に石田くんは帰ってきたみたいだけど会ってはいない)。各所帯ごとに同じような年頃の男の子がいて、その頃はまだ町内というものが多少の実質性をもっていて、しかもまだゲームが人が集まるためのきっかけとして機能していたということなんだろうけど、実際には彼らの家に上がったのは数えるほどしかないはずで、しかもある時期から毎日のように上がりこんでいた友達の家はもっと遠くにあった。それでも彼らを思い出すと同時にゲームのタイトル……ではなく彼らとそのゲームをした家の間取りというかヴィジョンというか雰囲気が彼らとの関係の記憶の代理のように浮かんでくる。しかも壁の色や屋根の葺き方や庭の様子などの外観と家の中が渾然としていて、イメージといえるほどの固定的なものではないけどやはり確たる雰囲気というか空間のにおいのようなものが実体として立ち昇ってくる気がする――いま、ここでも。


 どうでもいいことだけど、ワギャンランドは小宮くんだったかも知れない……。