右脳と左脳の話はもうやめて



 目が覚めたというのはもちろん目が覚めたあとの言葉で、その朝のいつどの時点で「目が覚めた」のかは実のところよくわからない。ともかく何か夢を見ていて、その夢とクロスフェードするように目が覚めた……という自覚もなくて「夢を見つつ目が覚めつつ」の状態のまま起き上がり、頭の内壁にこびりついた夢の残滓をいっしょうけんめい外側から爪でこそぎ取ろうとしていた。夢の感覚は身体に残っているのに言葉やイメージに結実させることがなかなかできなくてもどかしく、だけど意識を散らしてぼんやりとしていると夢の感覚が身体に戻ってくる感じがしてそれでまたどこかに焦点をあわせようとするとたちまちぼやけてしまいせっかく取り戻した夢の感覚さえ遠ざかってしまう。だけど日常生活でその感覚が突然身体にフィードバックしてくることがたしかにあって、それはひとがビルから飛び下りるのを目撃したとか象徴的な何かが目の前を横切ったとかそういう特別な瞬間とは限らずたとえば散歩していてふと顔をあげたときいつもは見過ごすような名前の知らないさして特徴もない植物が目に入ってきてそのときいつもは同じ向きに一致して安定しているはずの諸感覚がちぐはぐに作動しだしたりする。見た夢の内容は関係ないし、そもそもおぼえていないのだからなんともいいようがないんだけど、おそらくその感覚は夢の中ですでに準備されていて、準備といっても具体的な何かに対する備えというものではないけど感覚がフィードバックすることによって必ずしも充実感とか快感とはいえない外界に対するある感覚の冴えのようなもので身体が洗いなおされるような気持ちになる。ぼくにとって夢は底にこびりつくもので、そのうえに記憶がどんどんと堆積されていく。ひとに夢の話をするしひとから夢の話を聞くこともあるけどやはりそれはどこまでいっても「お話」でしかなく、だけど自分の「お話」に関しては苛つきながら思い出そうと四苦八苦したり辻褄をあわせたりなんとなくリアリティを追認できるようにこねくりまわしたりしているときにふと妙な気分に襲われることがあって、おそらく小説家や映画監督に「夢を元ネタに創造する」という言い方が適用できるのはこのような気分の持続に限っての話なのではないかと思う。(ただ夢の要素を元ネタにしたってしょうがない)


 ところで単に関心がないのか記憶力が悪いのか記憶力がないうえに関心にも欠けているので余計おぼえるべくもないのかぼくは植物や花の名前をよく知らない。これは描写一般の話なんだけど小説を読んでいると地の文の到るところにラベルが貼ってあって、知識とそれに伴うイメージ再現能力があればあるほど読みやすいようになっていて便利なのだがなにぶんぼくには知識がないしだからというわけではないが小説を読んでいてもよっぽどのことでない限りイメージを再現しながら読み進めたりはしない。だからラベルで済んでしまうようなものは描写などでは到底なくて、本当に読んで意味のある描写というのはあらかじめ貼ってあるラベルが気づいたらすべて剥れているようなものだ……といったところでもはや手遅れなのだがそれなら嘘でもいいから知識をひけらかしてイマジネーション豊かな俺様ちゃんというやつを誇示しておけばよかった。しかしある程度の知識があった方がいいのはたしかで、テクスト(≠作者)とは情報量においてはなるべくイーヴンに近い状態でいたほうがいいのだとも思う。参考テキストとしてさして吟味することなく保坂和志カンバセイション・ピース金井美恵子『噂の娘』高橋源一郎『ペンギン村に陽は落ちて』を挙げて今日は寝ます。明日起きてもナイフとフォークで取り下げるような真似はすまいと誓いながら。