保坂和志「病的な想像力でない小説」(『新潮』11月号)。滅多にないことだけど今日は電車の中でずっとメールを打っていて(周りの音や風景を巻き込みながらしばらく本を読みふと顔をあげてぼんやりと頭に浮かんだ散発的な何ごとかを頭の隅に放っておいた別の何ごとかと結びあわせたり突きあわせたりしながらまた活字に目を落とし気がつけば半分眠ったような状態のまま降りる駅のひと駅前くらいまで来ている感じが好きだし心地いい)といってもひっきりなしにやり取りをしていたわけではなくひとつのメールの文章を試行錯誤しながらずっと打っていて帰り道でもずっと打っていて家に帰ってから食事をしているときはさすがに打っていなかったけど食事も終わりたまたま録画していた『School Rumble』をぼんやりと流しながらふたたび打ちはじめて数分くらいしてようやく送信したのだけどいまだ返事はきていない。返事がきていないのはともかくぼくはそこで青木淳悟の小説「クレーターのほとりで」をメールの相手に読ませようと四苦八苦していて、「どんなに予測がつかない展開の小説でもそれが予測がつかないであろうことだけは予測がつくし読者もそれを了解事項として安心して読みはじめる」というようなことを書き、しかし「クレーター」はそうではないのだという展開に持っていこうとして頭の中では持っていけてるんだけど実際に文章にすることがなかなかできず、迂回しながら麻耶雄嵩の中途半端に『ウロボロス偽書』のような生真面目メタ小説を吹っ切れないダメさと、ゆえに結局は小説として法月綸太郎なんかには数段劣る……というような寸前の思いつき同然のことを書いていて、それでさっきwebをうろうろしていたら某日記サイトで麻耶と法月の新作を比較して(小説として)(その豊かさにおいて)麻耶は法月に数段劣るという評価をくだしているのを目にしてたちまちうんざりしてしまったのだけど見なかったふりをすることはできないししたくないのでとりあえずここに書いてみたが結局は書いてみたということにしかならなかった。


 仮に書くことの責任というものがあるとして、それはいつどこでどんなことを書こうともたえず同じようにつきまとうような鬱陶しいものなのだろうか。保坂和志は小説を書き、その補注のようなものとしてエッセイを書く。あるいは趣味と営業を兼ねて公式ページを持ち、その掲示板に書き込むこと(実際にはたまにしか書き込まないが、書き込むひとは当然のこととして保坂和志の視線を意識せざるを得ないし、常連同士の会話だって保坂氏の視線をまたいでかわされているように見えるのだからもう半分保坂氏が書いているようなものだ……いや、実際はでもやっぱり全然そういうことじゃないとも思うんだけど、まるで『マルコヴィッチの穴』みたいに保坂の穴に入り込んでしかしあくまで自らの目で世界を覗き込むようなイメージがぼんやりと……なんかイヤな穴だ、とか決して思うな)で友人や読者と言葉をかわす。すべて主体は同一の保坂和志なのだから彼の物の見方や思考基盤を知っていればそれを拠りどころに読むことができる。それでも小説は一から立ち上げないと意味がなく、また自分が普段使っているような言葉でさえも抽象的な時間の流れと空間の澱みの中でまったくちがうように見え、まったくちがうように響く。世の中にはエッセイやコラムやHPの雑文や掲示板の書き込みなどいわゆる小説/フィクションではないいわば生の言葉(とかなんとかとにかくそういわれてる諸々のもの)を無防備にそのまま受け取ってしまう人がそれなりにいて、そういう人が小説を読むとできあがった作者のイメージを拠りどころにしながらあたかも手持ちの駒と文章を照らしあわせて点検するように読んでしまってけっきょく最終的に残るのは作者のイメージだけなのだが、保坂和志の一部のエッセイは彼の小説を読むための助走というか道標として機能するように書かれているふしがあって、実際にそのように活用できるしいわば批評封じの働きにもなっている。関係ないけど『ユリイカ』とか清涼院流水とか笠井潔をはじめとするその他文壇関係者とかの言動を端から見ていると西尾維新なんかはまさにその「批評封じ」の被害に曝されている印象があるのだけど別に積極的に判断してみる気はないのでその印象が正しいかどうかはわからないし売れているのでそれはそれでオーケーということなのかも知れない。


 ともかく作者が作品外で言ったり書いたりすることを真に受けすぎるのはよろしくないと思う。保坂氏がしばしば「傲慢だ」とか非難されるのもそのせいではないだろうか。たとえばぼくは彼の公式サイトの掲示板の常連ではないどころかせいぜい気が向いたときにちょっとのぞいてみる程度でしかないのだが、どうやらweb上での書かれ方を目にする限りでは何だか「いろいろとあった」ようで、個人情報がどうとかデリダの死がどうとか、そのときどきで正しさを振りかざしたり義憤に駆られたりその実ただ口実を見つけて議論ごっこ(議論の大半はごっこだけど)に明け暮れたり誹謗中傷の言葉を連ねているだけの一握りの記述から事の顛末を知ったような気にはなれるんだけどだからといって特に何も思わない。彼のエッセイは内容の唐突さを避けるように丁寧でまわりくどい書かれ方をしているけどそれを公式とはいえあくまで私的な場である掲示板で求めることはできない。思考基盤や物の見方の相容れる余地のない人々を振り落とすような書かれ方だし、同語反復のようなつまらない質問や意見は容赦なく切り捨てられる。それは私的掲示板なのだから当然なのだと思う(「web全体」などというのは幻想であって存在しない)。


 それはともかくそれによって保坂和志を「傲慢だ」とし、いや、実際に傲慢であってもそれで彼の小説の読み方までもが変わってしまうというならやはりその人びとは「何も起こらない」「呑気で」「だらだら」「居心地のいい」「日曜哲学っぽい」「軽めの」文学だとしか読んでいなかったということで、その一語一語に対して否定するつもりはないけどやっぱりそれは批評封じが西尾維新に対してと同じように逆作用として稼動してしまっているということなのかも知れない。もちろんそんなこと「いまさら」なんだろうけど、しかし本当にそうなんだろうかとも一方で思うが別にどうでもいいといえばどうでもいい。ともかく保坂和志(に限ったことではないが)はそういうひとなのだ、とある程度距離を保っておかないとやっぱり読書の邪魔になる。というのも彼の作品自体(「東京画」もカンPも)彼が単発のエッセーや連載などで書いているような小説になり損なっているというかそこからはみ出してしまっていると思うからなのだが……(なりきれてない、とは言わないし裏切っている、とも言わない)。