「YES オノ・ヨーコ」展、「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展につづけざま(とはいえ二週間ほどおいてだけど)に行く。


 「デュシャン」展について。入り口に《大ガラス》と題された大きなカラスの張りぼてが置いてあって腰を抜かしそうになるが、ともかくレプリカとはいえ《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》と題されたいわゆる「大ガラス」と呼ばれるうすらでかい作品がもっとも目を引くもののひとつであることはまちがいなくて(もうひとつはもちろん《遺作》のレプリカ)やっぱりその大きさ、というか異様さに唖然としてしまうし呆れもする。そこに何が描いてあるかを説明することは難しい……いや、チェスだとかサンボリズムだとか武器はいろいろあるんだろうけど実際に目にしたときの異様さ、馬鹿馬鹿しいまでの美しさを伝えるのはほとんど不可能だろう。なぜこれを放棄(つまり未完成のまま完成と)するまでに八年もかかったのか、どのへんにどう八年かけたのかその痕跡が一見するとさっぱりわからない。リヒターの大ガラスのように射光のぐあいや観る位置によって物質(レディ・メイド)としてのガラスのあり方が変調するというものでもなく、ついでにいえばヨーコ・オノの空に向けられた透明のカンバスとしてのガラスのようなものでもなく(「YES」展では壁際にあったのだが)、単に部屋の真ん中に大きなガラスの板が置いてあって、それが上下に区切られ、それぞれ変な空間配置で意味ありげなシンボルの動きがぺたりと表面に張り付いている。円錐やら円柱やら風車のようなからくり機械やらがガラスという立体に閉じこめられた平面の中で立体的な運動を剥奪されていて、何を書いているのか自分でもわからないがともかく妙で、妙だ、妙だと唸りながら呆然と見ていることしかできず、とりあえず部屋の中のレディ・メイド品をひととり見てからもう一度もどってきて、やっぱり妙だ、妙だとつぶやきながら裏からはどう見えるのか……とまわりこんでみても鉛色の裏地が顕わになるだけで特に何も見えはしないのだけどそもそも絵画は裏から見ることはできないしそれゆえ誰も見ようとも思わないのだろうが「大ガラス」に関しては平気でまわりこめるような場所に置いてあってしかも裏地が同じ色で加工してあるのでシンボルが影のように散乱しながら大ガラスを裏から圧迫しているように見える(実際は絵の具が直接空気に触れないための加工らしい。まるで職人仕事だ)。


 どうやらこの作品はデュシャン自身によるメモと対にして鑑賞するのが正しいらしく、たしかにその断片はおもしろく納得もできるものだったけど、それでも妙なものは妙だし異様な作品であることには変わりない。そういえばオリジナルの「大ガラス」(というかレプリカもデュシャン公認の「オリジナル」なのだが)は完成後何年かして輸送中の車の中で倒れて大きなヒビが入ってしまったというのだけど、デュシャンは怒ったり悲しんだりするどころか嬉々としてまた何年もかけて不意の事故によるヒビをその一部として作品を補修していたらしい。このデュシャンの姿はもはや表現をする芸術家のものではなく芸術に奉仕する職人のものだと思う。