京都大学にて“映画談義”。はじめて生で話を聞く蓮實重彦にひたすら圧倒され、また中原昌也にひたすら和んでしまった。たとえ話す人と聞く人にわかれていたとしてもメディアを介することなく生で接するとその人の豊かさを否応なしに受け取ってしまってやっぱり感動する(ただし音楽や演劇の場合は注意が必要で、音が鳴ることや動きや演技から発した感動がそのまま音が鳴る過程や固定化しない動きそのものに留まることなくあっさりとその発信者に短絡してしまいその瞬間に舞台と客席が断絶する、あるいはたちまち舞台が客席に埋まりこみ誰もが渾然一体となったまま断絶に囲まれる……あるいは同時に)。文章や作品が個人を汲み尽すことなど到底できないのはわかっていながらもどうしても作品を主語に何ごとかを言おうとするとき代補的に固有名が侵入してきてしまうのは避けられないのだけど蓮實重彦はやっぱり彼のテクスト同様に決定的なところで信用の置けない男で、たとえば中原氏がまっとうなしかし蓮實氏の発言に反するような見解を口にすると(始終彼がまっとうなことしか言わない!そして蓮實氏を鋭く突っこむ。蓮實氏が『シックス・センス』を「セックス・センス」と言い間違えたところにすかさず「欲しいですよ!」と突っこみ、蓮實氏は何喰わぬ顔で「言い間違いにも……」と俗流フロイトで返して中原氏爆笑。ずっとこんな感じ)難しい顔をしながら鈍重にうなずき、「おっしゃるとおりなのですが」とその見解を織り込み済みのものとして自らの流れに吸収してしまう。蓮實氏のテクスト(書かれたこと、話されたこと)を受け付けないひとはこの「織り込み済み」の態度の胡散臭さが駄目なんじゃないだろうか。浅田彰か誰かが言ったように「蓮實重彦に眩惑される奴は田舎者」ではあるにせよ、だからといって勝手に終わらせて端からテクストを退けてしまうのも同じあやまちではあると思う。フランスの詩人によるゴダール批判(罵倒)の話からはじまり、中原昌也と闘うために昨夜どんな準備をしてきたかを抑揚はおさえながら独特のリズムをもって講談師のように語を継いで聞かせられる……おもしろいし、何よりうまい。だからますます気が置けなくなってしまうのだがときどき回路が一瞬途切れてしまったのか動きがぎ、ぎ、ぎと止まるところや休み時間にサインの懇請を快く受けながらも色紙に書くことだけは丁重に辞退する様子などを含めた氏自身の「豊かさ」にとりあえずこの場は圧倒されていていいのだと思った。


 中原氏も爽やかで気持ちのよい人柄が容赦なく伝わってきて、『文藝』の相も変らぬ陰陰滅滅とした捨て鉢のインタビュー記事に多少いらつかされたことも彼の緊張しながらもひと懐っこそうな所作の前にはどうでもよくなってしまった。蓮實氏が「あなたのことをオタクだと勘違いしているひとがいる」と言っていたけど実際にいるのだからおどろきだ。狂言まわしとして蓮實氏がひとしきり発言し終えたあと次から次へと振られる話を正面から受け止め、しかし結局は処理しきれずに受け流してしまうような形になって観客や氏から「すぐはぐらかす」と責められる中原氏を見ながらぼくは「本当にこのひとの中には何もないのだなあ」としみじみと思った。中原昌也について「ああ言ってるけど中原昌也はメチャクチャ本を読んでいる」とか「本当は文学史的に正統的な作家だ」とかいったところでしょうがない、それでは「クラスの不良が捨て猫を拾っていた」と吹聴してまわるようなものでけっきょくはイメージにイメージをぶつけているだけだ。映画やら音楽やら他人やらいろいろなものが中原昌也の中を通過し、その通過する一瞬を我々は彼の表現として目撃している。そういう意味で中原昌也の小説は「キャラクター小説」なのではないかと思う。巷間でライトノベルと呼ばれるような「キャラクター(主体)の小説」ではなく小説がそのままキャラクターでありうるようなもの。もし多くのひとが言うように中原昌也の小説が何か新しいもの、おもしろいものであるのだとするなら(某サブカル批評家が言うような「前衛」では絶対にないが)、ということだけど。余談だけど穂村弘の『手紙魔まみ・夏の引っ越し』という歌集は「キャラクター短歌」なるものの一種に数えあげられて穏当に遇されているがこの本の中にイラストとともにまみの言葉として織り込まれた無数の短歌をただ「まみというキャラクターが詠んだ歌」あるいは「まみというキャラクターが詠むに託して作者=穂村弘が詠んだ歌」としか扱いきれないならば短歌という形式はその歴史を枷に取り返しのつかない(かのような)不恰好さで陥穽に陥っていると思うし実はもうそうなってから長いこと経つのだけど決して死んだとは言いたくないのは別に未練や愛着があるからというわけではなくただ単にそうしないというだけだ。余談二。少しうえで「表現」という言葉を使ったけどこの用法はDavid Marrの“vision”におけるそれに準拠している。彼は著書のはじめのほうでひとまず簡潔にこう記している。〈表現(representation)とはある実体またある種の情報を明示する形式系であり、同時にその明示方式をも示したものである〉


 印象深かったこと……はむろんおいそれとは書ききれてしまえないくらいあるしメモしているわけでもないので任意には思い出せないのだけど繰り返し述べるのでどうしても頭に残ってしまったことがふたつある。まず映画『犬猫』のすばらしさ。とりあえずその日の蓮實氏は二言目には『犬猫』の名前を出し、ほとんど手放しで称賛した。うんざりはしないもののさすがにしつこいなあと思えるほどで後半になってようやく収まってくれたかと思ったら想像だにしないところでまた名前が飛び出す始末なのだが氏曰く「ここまで言ってもこの中で十人も観るひとはいない」とのこと。場内の微妙なお行儀の悪さというか浮ついた空気からおそらく蓮實重彦の予言が少なくとも大きくは外れるまいということは予想がついてしまうのだが『子猫をお願い』に匹敵すると言われては氏特有の言いまわしであることはわかっていても見ないわけにはいかない。ちなみに『子猫をお願い』の感想を求められた中原氏が「よかったですよ」とだけ答えると即座に「それだけですか!?」と不満気に返す蓮實重彦はやっぱりおもしろいしまちがってはいないというかこのことに関しては圧倒的に正しい。決してまちがえないこともまた胡散臭さの要因ではあるのだろうけど……。


 二つ目は「こういうひとたちがブッシュに投票したんです」。これもことあるごとに言っていた。蓮實氏の付き合いのある大学のある州すべてでケリーが勝っていた、つまりブッシュが勝った州の大学とはどことも付き合いがなかった、その不気味さはむしろケリーが勝った州にたいして感じるもので、文頭の言葉はむしろその大学にいるような連中に向かって発せられている。「あんなゴミをいいというひとがいる」とマイケル・ムーアの作品にたいして映画としての評価を下していて(あんな馬鹿はすぐ消える、と言うとすかさず「もう10年やってますよ」中原氏)ふたりで『華氏911』なんて観る気がしないということでうなずきあっていたのだけどたしかに『ボウリングフォーコロンバイン』はテレビで観たけど下品な映画でとても映画館で真面目くさって観るのに堪えられないような代物で、『華氏911』はそれに輪をかけて醜悪なのは揺るぎない事実なのだがこの映画をひどいと言って批判したり観なかったりする選択によって親ブッシュと決め付けられるような雰囲気はたしかにあって、ではマイケル・ムーアは反ブッシュだからといってケリー派なのかというともちろんそうではないということはおそらくみんなわかっているはずなのだ。ちなみにここでも例のごとく「ケリーが落選することはわたしにはわかっていました。主役を張れる顔ではないんです」という蓮實節は炸裂。