理屈も結論もない話だけど時、事、物、順列によって記憶の密度が異なっている。数年前のことより十数年前のことのほうが生々しいのはざらで、むしろその数年前のことは夢のように朧で手触りがなく、かと思えば何てことのない言葉のやり取りを不意に思い出したりしてそれだけならまだしもそのときの音やにおいや視覚イメージがランダムに立ち上がってきて思い出の一場面を捏造的に再現する。『スペースバンパイア』という映画を観たのはたぶん小学生〜中学生のころで、劇場ではなく父親がテレビを録画したものだったと思うがかなりのインパクトを残した。もちろんいまにもまして散漫で移ろいやすい記憶力の持ち主だったぼくは間もなく内容はおろかタイトルまできれいさっぱり忘れてしまったのだけど宇宙船と裸の外人女性とほとばしる青い稲妻の内実はぼんやりとしながらも輪郭だけはやけにはっきりとしたヴィジュアルイメージだけは残っていて、そのおかげで大学に入ったころにそれがトビー・フーパーの『スペースバンパイア』だったことを思い出(すかのように追認)した……とはいえその追認と記憶はかけ離れてはいないものの妙に収まりが悪く、しかも放っておくとその隙間にたまったイメージの残骸はどんどん肥大化して記憶を覆いつくしほとんど身体感覚と区別がつかなくなってしまう。なら実際に観て確かめれば済む話なのになぜかそうせず中古ビデオ屋で買ってきた『スポンティニアス・コンバッション』(安かったのと人体発火ものは見ないわけにはいかないから買ったのであってこの映画や『悪魔のいけにえ』の監督のトビー・フーパーと『スペースバンパイア』を撮ったTOBE HOOPERを結びつけるという発想はなかった)にいたく感動したり『地獄の警備員』を観て「トビー・フーパーだ!」と興奮したりして(ここに到ってもまだ『スペースバンパイア』の監督とは思っていない)お茶を濁していたんだけど、ようやく先月999円で売られていたDVDをいきおいで買って(ちなみにそのときなぜか定価\28XXの半額で売られていた『赤ちゃん教育』も買ったのだけどこれがやる気のない大味のコラージュが施された一見さんお断りのパッケージで胡散臭い。いわゆる名画ばかりがシリーズで山ほど、ひょっとしてこれって粗悪品なの?まだ開けてないのだが)今日観た。


 『スペースバンパイア』にはほとんどすべての映画が入っているんじゃないかと思った……たしか「すべての映画は恋愛映画だ」といったのは淀川長治で、「すべての映画はホラー映画だ」と言ったのはまちがいなく黒沢清だったが、その両者の言葉を加味するならば『スペースバンパイア』こそあらゆる意味で映画と呼ぶに相応しい……と「そうきたか!」と叫んだまま硬直するしかなかったあのエンディングをやりすごした頭で(のみ)そう思った。パッケージ、タイトルから類推できるようにはじめは堂々たるSFなのだ、それは『エイリアン』の脚本家が参加しているのだから当然と思えるんだけどそれははじめの十数分だけで、映画は瞬く間にSFを置き去りにしてエイリアンもの、吸血鬼もの、ゾンビもの、怪奇もの、と変幻していきそれに伴って舞台も近代施設から精神病院、霧と火災とゾンビで溢れるロンドン市内など次々に変わる。変幻していくというかすべてが同列に成立していて、新しいルールが現われたかと思えば別のルールに踏みにじられてそれでもどんどんと映画は進んでいく。なんと自らがいずれ撮る人体発火ものも先取りしている。パニックものでもあるし、なにやら終末感まで立ち込めている。ここで「ああ、『回路』だ」と思うのだけど同時にこの映画が実は狂おしいまでのラブロマンスでもあったということが明かされる。それも人類の根源を問うようなすさまじいスケール。そして馬鹿馬鹿しいほどに感動してしまうあのラストがやってくる。昔観た『スペースバンパイア』がこの『スペースバンパイア』と同じだったかはわからないがたぶん同じであっても違うのだろうし違うのならばやっぱり違うのだ。公開版より14分長い無修正版だとパッケージに書いてあるからそういう意味で「違う」のは当たり前なんだけど。


 ところで今日は『ロードオブザリング』をテレビでやっていたらしいが『スペースバンパイア』で「そうきたか!」と叫んでしまったのは二ヶ月ほど前にDVDを買った『吸血鬼ドラキュラ』のせいだろう。ドラキュラがとにかく走る。無意味にマントを翻す。寝床に帰ったらヘルシングがいたのであわてて逃げる。そしてやたらと弱い。弱点だらけのくせに無防備で、だけど攻められたらとりあえず逃げてしまう。というのもドラキュラは変身することができないからだ。トビー・フーパーはそのルールを律義に守りながら、しかし同時に平気な顔でそのルールを足蹴にする。なんと強烈。なんと知的。