現在仕事場にしているところから引き戸一枚を隔てて建っている山積みに整理されたいまや使われなくなった用途がいまひとつわからない、あるいはわかりすぎてかつてここで本当に使われていたことがにわかには信じがたいほこりをかぶった工具類や機械類が一部のパソコン類やいまだ頻繁に使われている工具類や数日ごとに現われたり消えたりして空間の見え方をひっきりなしに変えていくしかしやはり用途がよくわからない機械類を圧迫している倉庫のような敷地に足を踏み入れ引き戸を閉めるといっさいの暖房器具の恩恵が遮断されてしまうため急激な温度の変化に痙攣的な震えが全身を撫でるように這いずりのぼり一瞬だけど感覚と器官がかみ合わなくなって理不尽な氷づけの賛美歌が頭頂部から鼻腔をめがけて刺し貫くのだが一日に何度もそれを繰りかえしているとそのかみ合わなさ自体に慣れた気分になってしまって、とりあえずさっさと用事を済ませて暖かい部屋に戻ろうと剥き出しの両手を擦りあわせながらふと目を上げると大通りに面して備え付けてある大きなガラス扉から大通りの彼岸にある警察学校の高い塀の向こう側に生えている桜の木を満開の桜の花が覆っているのが見えて思わず咽喉の奥から根こそぎ呼吸を引き抜かれたような心持ちで、ああ、もう桜が咲いているんだなあ……と思ったら出はじめの夕陽によって淡いピンク色に染められた中小の雲のかたまりがちょうど裸の桜の木の枝のところどころを引っ掛かるように覆っていただけだった。考えればいまは一月末で、この寒さで、そのいずれをもことのほか今日一日は強く意識せざるほかなく過ごしていたのだからそう見えてしまったからといって易々とそう思ってしまうのはおかしいとしかいいようがないんだけどなんら疑う余地なく、「疑う余地なく」さえなく、ああ、桜が咲いている、という慨嘆の意識が現前化してしまった。


 大庭賢哉「よーこちゃん。」という短編に出てくるよーこちゃんは「線が見える」女の子で、とはいえモノが壊れやすい線が実際に見えてしまうことで妙な闘いに巻き込まれ……とかそういう話ではなくていわばもてあまされた処世術のようなものとしてよーこちゃんの身辺に摩擦なき摩擦を引き起こしながら「線」を手放していくんだけど(こういう書き連ね方はあまりよくないしうまくない。この漫画は人工的に構成された線、タッチ、絵の並びがとてもよい)、「最後の線」としてまだ花をつけていないはずの桜並木の中のある一本から先にずっと満開の桜が連なっているところに通りかかって、「もしやここが桜前線?」「ってまさかね……」とひとりごちながらやおらスケッチブックを取り出して描きはじめる場面がそのとき、つまり満開の桜の正体を認識するとほとんど同時に頭に浮かんできて、ぼんやりとそれを反芻しながら倉庫のような敷地で片付けるべき用事を済ませると桜の木を一顧だにすることなく暖かい部屋のほうへと退散し、それから五分もせずに新たな用事を見つけ出してもう一度そこへ足を踏み入れるとちょうど警察学校が視界の真ん中にくる形になっていやがおうにも桜の木が目に入る格好になってようやく桜の木がそこにあったことを思い出し、つまりそれまですっかり忘れてしまっていたということなんだけど一瞬とはいえさっきはたしかに満開だったという感覚をなぞりつついまやさっきと同じような形をとりながらも明らかにそれとわかる重いねずみ色の雲に覆われた桜の木を、ああ、桜が咲いていたなあ、という思いを滴らせながら眺める間もなく軽く身を縮こまらせて用事を一刻も早く済ませるため倉庫のような敷地の奥へと急いだ。


 ところで夕陽はどこへいったんだ?……