パソコン復帰



  小説でも本でもないけど飽きたわけでも生活にのっぴきならぬ事情があったわけでもないのにゲーム『AIR』を一年のあいだ開きっぱなしにしていたことにはさしたる理由はないがそれが可能なのはあくまで三部構成の第一部目までで、第二部は基本的には悲劇のモティーフを縮小して反復したようなオーソドックスな読み物だし、第三部に到るとほどよい退屈さと視覚と聴覚と触覚を緩やかに連結させながら物語が進んでいく小さじ一杯程度の快感の連なりによって蓄積された豊かさをひとつずつ磨耗させながらひたすら反復される苦痛の持続のみがリアリティを形成するような状況を強いられ、全体としては作品としての結晶度はとても高いのだけどむろんそれは逆算的な完成度とはまた別の話でむしろ俯瞰してしまうと破綻してしまっているといってもよく、ばら撒かれた「泣き」の要素が断絶されたまま機能しつづける不合理きわまりない物語だという印象だった(反復、持続によるリアリティ……ということで『AIR』と真逆の作用をもたらす『犬猫』という映画のことを思い出す。この映画は冒頭から人物たちの「関係」や映画の「物語」を凝縮して閉じこめたかのような密度の高い画面の反復によって緩やかに進行していく。一例をあげると藤田陽子榎本加奈子が空港に向かう小池栄子アタッシュケースを三人で抱えて長い坂道を登る場面、まずこの坂道の傾斜の格好がすばらしくて、いや実際には何の変哲もない坂道なのかも知れないけどカメラでの捕え方がとてもよくて見ただけでちょっと興奮してしまうくらいなんだけど、その坂道をのろのろと進む三人の後姿、そして坂の上で待ちかまえていたカメラの前でのちょっとしたやり取りにこの三人の人間関係や佇まい、また物語のリズムなどが的確に押し込められていてその凝縮性の反復が緩やかな物語の時間を作り出していて心地よく、映画が終わるのが惜しくてたまらないのだけどしかし日常と地続きのようなこの映画は実はフィクションとしての自立性が高く、たとえば小池栄子は留学へ行ったまま中国に居ついて帰ってこないんじゃないか……と思うと同時にやはり拍子抜けするくらいにあっさりと帰ってきてまただらだら暮らすだろうとも思えるし、ひょっとしたらまた衝動的にどこかへ旅立ってしまうのかも知れない。何であれそれは映画の外の出来事でしかないのだけどその映画の外の出来事は映画とともに立ち上がり、生きはじめ、しかし映画が終わってしまってもそれとは関係のないところで生きつづけ、生きつづける予感、生きつづけているような感覚を強烈に残し、日常にまぎれ、またふたたび映画とともに立ち上がる……)。


  ↑上記部分(いちおう書きかけでタイムリミットがきたので中断していたはず)まで書いたのが月曜日で、web接続を含めたWINDOWS上での作業の大半が不可能になったのが火曜日、そこで混乱に陥りながらもマウス操作だけでも復活させたのが水曜日でweb接続までこぎつけたのが木曜日、それで土曜日の夜からレジストリなどすべてのシステムを洗いなおして深夜ようやくグラフィックのドライバを新しく入れ直すことで完全に元の状態に復帰させることができた。そのあいだはずっとどこか集中力を欠きながら、放っておいた佐藤友哉エナメルを塗った魂の比重』(どうしようもなく文章が下手で幼稚で陳腐で青臭く貧しい苦痛以外の何ものでもない読書が、しかしそれをあくまで保ったままやたらに面白く、刺戟さえ感じかねないものになるという稀有な小説だった)、山名沢湖委員長お手をどうぞ』(ひたすら好きなんです)、あすなひろし『青い空を, 白い雲がかけてった』(絵柄は全然ちがうのだけど岡田史子を思い出した。線が……内容は基本的に半劇画調とデフォルメの入り混じるコミカルでドタバタの旧き良き少年漫画の王道という感じで、死とか別れといった「泣き」の要素が露骨に書き込まれているわけでもないのだけど何でもない場面で思わず泣きそうになってしまうのはその繊細で透徹とした線の運びによるのだと思う。「のど自慢」に出場した主人公の父母がテレビに大写しになるコマとかたまらない)などを読んでいたのだけど頭の隅ではほとんどパソコンのことは諦めて今後の計画をいろいろと練ったりもしていたので(知識不足ゆえ苦労したとはいえ)あっさりと修復してしまい喜びの反面ちょっとした脱力感におそわれないでもなかったがいまはそんなことはほとんど忘れてしまった。