そのとき具体的にどのような視覚イメージに襲われていたのかまったくおぼえていないしその「おぼえていないこと」の度合いの過剰さのみがひたすら触れ心地の悪いのっぺりとした暗闇として視覚(という感覚処理の根っこの部分に)迫ってきていたようにも感じるんだけどともかくぼくは自然発生的にそこにいて、というか視覚の重圧によってそこにいることが急激に意識され、それからあわててその意識のあとを追うかのようにだんだんとほかの身体感覚も同期を取り戻していって、どこかしらから誰かのぶつぶつとつぶやくような声が妙にはっきりとしかし対岸から風にのって運ばれてきたかのような不意撃ちの響きを伴って聞こえて、それをしばらく聞くともなしに聞いたあと突然、あ、アムロ・レイの声だ、と思った瞬間に中途半端に折り重なった二枚の布団の下で目を覚ました。実際に聞こえていたのは昨夜聞きながら寝てしまい自然停止に任せたまま放置されそれから数時間後に休日仕様の少し遅めにセットしたタイマーによってふたたび再生されたJohn Cageの『Roaratorio』(というFinnegans Wakeの朗読と様々な音のコラージュ)でテキストのところどころをさほど抑揚なくときにはリズムやちょっとした節をつけてときには消え入りそうな低音で朗読するケージ自身の声で、とうぜんアムロ・レイとは似ても似つかない。なぜアムロなのか?ガンダムなんてあまり思い入れはないし、最近なにかそれに関するものを見聞きしたおぼえもないのだけど。


 ところでクッツェーの『エリザベス・コステロ』をせっかく買ったのにその数日前からなんとなく本棚から抜いて読みはじめていた『フランケンシュタイン』がおもしろくてまだ読みかかることができない。やはりフランケンシュタインものの映画も総点検せねばなあと決意を新たにしたのだけど、より興味をひかれるのは怪物を生み出してしまうまでのフランケンシュタインの生い立ちの部分で、むしろこの幼少時代から自然哲学の魔の手に搦め取られるまでを拡大して閉じこめた映画があればいいなあと思う。『狩人の夜』と『乙女の祈り』を掛け合わせたような感じをイメージするのだけど……。


 以下は全然関係なし。


《おもいでというのはいつもなにかものとセットになってでてくるものだよ。タイヤがガタガタになった自てん車をみると、やまのふもとのみずうみにあさはやくからおとうさんといったこととか、学校にこっそりのっていってちかくのアパートにとめていったこととかをおもいだすんじゃなくて、自てん車できんじょのこうえんの階段をおりようとしてころんだこととか、なぜかなきそうなお母さんのまっかだかまっさおだかよくわからないかおのほうをまっさきにおもいだす。写しんだっていい。写しんそのものがおもいでだったこともあるし、写しんにおもいでのものがうつっていることもある。けっしておもいでそのものはうつりはしないけど。新聞のきりぬきはだめだな。よそごとだもの。新聞をだれかが印さつしてるってことだってよくわかってなかったくらいだから。戦争のまっさいちゅうだったとか、友だちがおおきな事故にまきこまれたとか、新聞にかいてあることをみじかにかんじるときはたまにあるから、それなら新聞でもいいかもしれない。それさえもじぶんでよむわけじゃないからちょっとずるいよね。でもおどろくのはいがいに世界のいろいろなこととあゆみをともにしていたってこと――お父さんのことばのうけうりなんだけど。たとえばこどものころ学校で絵本をかいたんだ。せんちょうとこども、みんなからこどもといわれるようなこども、でもそのこはばかだからみんなにこどもじゃないっていうかもしれない、そういうこどもがいっしょにふねにのる。それでふしぎの島でぼうけんをたのしんで――きっとたのしいんだと思うけど、もしじっさいにそのこどもだったらとかんがえるとそうもいってられない、だけどじっさいにそのこどものようにふねにのってふしぎの島にいったのならやはりぼうけんをたのしんだと思う、その差はたぶんおおきい――またはくるしんで、ようやくお宝をみつける。それはバットとグラブ、そしてボールとそっくりのかたちをしているんだ。もちかえったこどもは野球のはつめい者になって、それからそのまごがいつか野球のせん手なって4ばんでたくさんのホームランをうつ。おかしくはないよ。クラスの代表にえらばれたし、先生にだってやまほどほめられた。それでだよ、しらべてみたらその年とそのまえの年にアメリカと日本でそれぞれゆうめいな野球のしょうせつがかかれているんだ。今回のはっけん者はおとうさんだったんだけど、でもこういうことはきっとまだまだある。しらべてみないとぜったいにわからなかったことだよ。おもいではすてきなものだって先生とか友だちがいうし、たしかにそうおもうけど、たまにはかぜにあてないとくさっちゃってしょうがないんだろうね》