視力がよくないにもかかわらず仕事場と自室と映画館以外ではほとんどメガネを外して生活しているおかげでわざわざ見なくてもいいものまでをも見てしまうはめに陥る……実際には視界に入ってきてそのまま出ていってしまうようなものまでいちいち立ちどまって認識してしまうということなのだけどそういういわば視界の網ともいえる領域はとうぜんながら非常に狭いため世界は網の外と網の中に分割され、さらに網の中でもいまだ触知されざるものと認識済みのものに分かれる。夜となるとさらに視界の網は狭まり、というかむしろ外に向かって開かれてしまって地面と空のあいだに塗りこめられながらひたすら歩いているという感覚が皮膚の表面に拡散していく。それでぼんやりと十数歩先の地面を見ながら歩いていると道端になにかが置き去りにされていて、とはいえ気がついたときにはすでに目前にまで迫っているのだけどそれでもまだそれが何だか認識できず、通りすぎるときになってようやくそれがアスファルトにうずくまるビニール製のオオサンショウウオだったり砂利道に溶け込む剥き出しの犬の死体だったり誰かの置き忘れた取り外し式の鼻やら耳がひしめく小山だったということがわかって、あるいは結局なんだかわからずにちょっとした身震いをおぼえながら決して引き返してたしかめようとはしない。


  視力がよくない(近眼である)以上「見える」という通常自然なことだと見なされている状態に辿りつくまでに外界より与えられた視覚を一度手放したうえでさらに奪いなおさなくてはならないのだけどただ「見える」のならば瑣末な取るに足りない情報として処理されてしまうようなものまでもそのような手続きをとることで意識的に内部に取り込まれてしまって面倒というか気持ち悪いというか感覚の調律が狂ってしまう(が一瞬ですぐに戻る、あるいはわずかに狂ったままやりすごされる)……ごくたまにメガネをかけて外出しようとすると物の輪郭のあまりの明瞭さが目に突き刺さってきて酩酊感におそわれるし、むろんすぐに慣れはするのだけどどうしても視覚に異物感が残ってしまって心持ちによってはやむなくメガネを外して持ち歩いているARMANIの触り心地のなめらかなケースに仕舞いこむときもある(中身はARMANIとは無関係の安メガネですが)。この異物感というのはメガネの異物感そのものであってコンタクトレンズもそうだけどいつどんなときであれもっとも近くに見える物質がレンズで、世界はその物質の向こう側に歪んだ形でしか(視覚的には)拡がっていないということを強烈に意識せざるを得ない。そもそも視覚自体が然るべき処理プロセスを経ることにて生じるわずかな遅延を誤魔化されつつ与えられるものなのだから視力のよくない者は人工的なレンズによって二重の歪みを潜り抜けなければならなくなる。


  ところでどこかの誰かが「書きたいこと」「書けること」「書かねばならぬこと」「読者として読みたいこと」の四つの中で書き手は結局は「書けること」しか書けないのだ……とかなんとか言っていたのを読んだんだけどそれは能力や才能の話ではなく「書いたこと」が「書けること」にほかならないのだということで、こと文章に限っていえば二文字目は必ず一文字目の次でなければならないし一文字目がなければ二文字目というものはこの世のどこにも存在せず、たとえ頭の中で書くべきことをすべて準備していたつもりでもやはり一文字目の前に二文字目はなく二文字目が実際に書き付けられるまで三文字目が存在しうることなど想像にも及ばない。で、地下鉄の中でおもしろいホラー映画というのはいわば近視眼者的な世界をスクリーンの中に再構築しているわけでいわば映画館に行くということは人びとの観念からメガネを外す儀式にほかならないのだけどそれでは映画を少しでも鮮明に視覚に刻み込むために映画がはじまる前にでわざわざメガネをかけなおす近視眼者という構図はなかなかどうして皮肉なものだなあ……と愚にもつかないことを考えていて、それでとつぜん数年前にホラー映画を紹介するという名目で黒沢清蜘蛛の瞳』の鑑賞会を後輩の家で敢行して心ない後輩(後日わざわざ『回路』を劇場まで観にいって「怖クカナカツタ」と誇らしげに問わず語りをおっぱじめるような女性)から退屈だの怖くないだの散々苦情を浴びせられ挙句に「モツト怖い映画ヲゴ紹介シマシヨウカ」と悪意のない顔で言われてどっと疲労したことを思い出していまさら後悔したりして、やっぱりホラー映画という名目だったのが失敗だったのかも知れないけどあの作品にはちゃんと幽霊も出てくるし出てくるだけといえばそうなんだけど鑑賞した部屋の持ち主はラストで布団をかぶって震えていたのだから、まあそれもちょっとどうかとは思うがやはりそんなに外れているということはなかったんだろう……と都合よくいちおうの結論が出たころでちょうど降りるべき駅に停車したのでゆっくりと腰を持ち上げ、行動のリズムが切り替わるとともにかちゃかちゃと考えの回路も切り替わり、『The Last Broadcast(ジャージーデビル・プロジェクト)』の不遇な評価について(日本ではDVDさえ出ていない。『絞殺魔』とか挙げていくときりがないですが。『ベルリンアレキサンダー広場BOX』はまだか?)いらつきながら短い階段を何度も昇り降りしていたのだけどなぜこんな瑣末事をいちいち文章にしているのかは自分でもよくわかっていない。


  多和田葉子は近視眼的な作家だと思う。そしてそのこととは関係なくNHK伊藤比呂美相手に顔を上気させながら一生懸命言葉を並べる彼女に……なんというか、その、つまりなんだ、あの、えっと、いわば、「萌え」た。