『ひぐらしのなく頃に解』を読みながら。果たして小説は詩を羨むだろうか。詩が小説を羨むなんていうことはあるだろうか。詩は小説の大半を覆う単純労働の、蛇行する思想の痕跡を蔑むにちがいない。足を引きずり、地を舐め、重みに拘束され、ひたすらA地点からB地点へ、そしてひと息つく間もなくその先に現われるC地点へと惨めに移動するほかないその足取りを憐れみをもって見つめるにちがいない。目に見え、耳に聞こえ、肌に触れる「現実」に忠実に寄り添いながら結局はだれのいかなる「現実」にも対応することなくただひたすら同類たちに似ていく様子をしかしもはや詩は見てはいないにちがいない。詩は詩をその自らの内に飼う。あるいは自らの詩に飼われている……ということもあるかも知れない。いずれにせよ気がついてしまったらもう後戻りはできない。そのとき重さが世界を支配する。むかしからそうだったことに気がついてしまう。事物と現象の世界。どこで、というのは重要だ。便座の上で?陽の暮れかかった工事現場で?敷石を切りつけるようにうごめく雑踏の真ん中で?そしてここに(詩さえも押しのけ、あるいは飲み込んで)小説が入り込む契機があるように思う。まずは未読ならばHenry Miller"Black Spring"を読んでみること。面倒くさいことだがミラーを性だとか放蕩だとかからひとまず切り離して読み、粘り強く検討してみるべきだ。詩と小説の関係を洗いなおす抗いあう共闘の記録のようなものとして。


 いまはみとせのりこ『ヨルオトヒョウホン』を聴いている。これは予想を超えるすばらしい出来。あらためて彼女がEDを歌うPSゲーム『CHRONO CROSS』を途中で放り投げたことを悔やむ。せめてサントラでも買って懺悔しよう。