まな板の上でネギが刻まれるように、鍋のなかでにぼしからだしがとられるように小説が書かれることをいまは願う。生活の反復のただなかで、よそ見をしながら、ときおり手元に注意を払い、規則正しくアルミや木やセラミックを打つ水や外から不規則に飛び込んでくる様々な物音のあいだに流れる控えめなBGMに気を取られ、足許のざらつきを撫で上げ、欠伸などを噛み殺しつつ頃合を見計らって気まぐれにコンロの火勢を少し弱めてみたりする。もっと心にもないことが書かれてもいい。(いままで書かれてきた、あるいはいままで書かれていない)言葉によって書かされる「あなた」の心=身体から遠く離れたところでそれは書かれてもよいのではないか。しかし記述はあくまで正確に行われる必要がある。ここで言う正確さとは刻まれた途端に帝国の終焉を裏付けてしまうような縮尺1/1の地図をその足で測量してまわるときに必要となる正確さなのだがもちろんUmberto Echoが書くようにその地図が表徴する国などどこにもない。心にもないことを、あくまでその内部の論理にのみ則って。手の届かないはるか彼方の遠点ではなく、近視眼者が持つごく間近の遠点に向かって正確に言葉をひらいていくこと。視覚は閉ざされた形式系であり、その稜線のにじむところがそのひとにとっての世界の遠点なのだとしたら、そしてそれが手の届くところにあるのならばその点を取っ掛かりに外側へ向かうことができるはずだ、遠点を介した言葉における外側への運動、それはいたずらに信仰と呼ばれることがあってもいいはずだ。もっともっと心にもないことを、正確きわまりなく、つまりそれは何度でも同じ場所から書かれはじめなくてはならないということだ、正確さを保つにはそうするほかない、何度もなぞり、何度もはみ出し、閉じた視覚系はその運動によってそのたびごとに全体を捏造する。