明晰なる者に……ではなく、求道とは程遠い身振りで天真爛漫に明晰さを志す者に問いたい、答えなど期待するべくもないが問うしぐさだけはしておきたい、明晰さと引き換えにあなたが手放すものは何なのか。あるときそっと音楽から耳をふさぐ。床に這いつくばっている赤子がある日とつぜん立ち上がり、誰かの口真似をしながら足を引きずり手を伸ばすのはなぜか――彼はそこで音楽を発見した、愚かさへの第一歩を踏み出し、鈍さへと身体を開いた。音楽は鳴るたびごとに忘れ去ることを強いる。そして「明晰たれ」と囁きかける。愚かで鈍く明晰なる者よ、他人の言葉で身を固め、自らの言葉をその内に閉じ込める者よ、四肢なき者よ、かつて四肢が奪われていたころの感触を四肢の付け根はたしかにおぼえている、日々のもたらす驚きと音楽のもたらす驚きをあるいは生活の感動と音楽の感動を率先して取り違えるのはそのためだ、目に見えるものは目に見えるままではなく、視覚は構築されるのを待たずに瞬時に解体してしまいあわてて手を伸ばそうにもその手はすでにない(という感覚)。明晰さを志すものはただちに諦めよ。そしていますぐその口を閉ざせ。もごもごと口の中で泡でもウジでも言葉にできない考えでもうごめかせておけばいいではないか。それで何が足りない?


  というわけで上記のように今日はARVO PÄRT"TABULA RASA"(まさかamazonの音質の劣悪な抜粋で試聴の用をはるかに超えたある種の音楽的感動を得るとは思わなかった。思わずJohn Zornまで買ってしまったではないか……山塚アイが参加しているヤツ、そういえば彼の奇声をあらたまって聞くのは「革命京劇」以来ではないかしら)を聴き、某所にて樋上いたる氏を見かけ、我が家に巣くう山の神と『ライフ・アクアティック』を観て心の底から感動した。朝から晩まで震えっぱなしの一日だった、ということ。