今日の片隅リクエスト。すこしくらい高価くてもいいからHans Jurgen SyberbergのDVD-BOXを早く出してください。ちょっと日本はドイツに厳しめ姿勢なんじゃないの、かつての同盟国なのにね!?『ルートヴィヒ二世のためのレクイエム』とサーシャ・ソコロフの『パリサンドリア』は根っこに近いものを感じるのだが……。あとGolden Palominosの80年代再評価を望む。ついでにたかみちの画集を復刊してください(『みずのかけら』よりも『てんしのかけら』をリメイクしてほしいのだった)。


  もはや昨日のことすら覚束ない。日夜の破戒的春の目覚めの啓蒙活動により記憶中枢が壊滅的なダメージを受け、フラッシュバックとフラッシュフォワードに悩まされながらガルボが笑う!泣いたそばから見事にそそり立つ!と叫ぶほかない自由の奴隷状態。そんな中『フタコイ オルタナティブ』第11話。第10話は録画に失敗して見ていない。冒頭、第二次大戦とマッカーサーのスチールが現れていきなり『東京大虐犯』か『革命的半ズボン主義宣言』か……と期待と混迷を余儀なくされるが何のことはない『いかレスラー』だったのだ(まんま。観てないけど)。映画が思いがけないところから発見されるようにアニメーションが発見されるということはおそらくほとんどないだろう。同じ集団作業でもどこかちぐはぐで上の空な各々の生活形態がぶつかり合う「現場」がアニメーション製作過程にはない。ノイズは排除されるだろうしましてや照明や撮影クルーが画面に映りこんでしまうことなどありえない(ありうるとしたらそれはろくでもない演出の一環として……演出の質を問うているのではなく演出というものがそもそもろくでもないものだということ)。情報が貧しく、そのために色分けされ、それぞれが単色で塗りこめられている。あらかじめ掘り起こされているものを白々しく掘り返し、その同時体験性をもって送り手と受け手は連絡し、流通してしまう。『フタコイ オルタナティブ』もまた典型的なアニメのようにわかりやすく色分けされている。そのなかで変調のための変調を繰り返し、破調を避けながらときに幸福な運動を謳歌し、何かをはぐらかしつづけながら、しかしどこか慎み深い……。


  黒沢清神田川淫乱戦争』において少女たちが当たり前のように(しかし事前には誰もそれを信じなかったし事後になってもいまだ信じがたいことなのだが)神田川を橋を使わずに渡ったことに金井美恵子が「びっくりした」ようには『フタコイ オルタナティブ』によって何かに気づかされてしまうということは決してないのだけど誰がなんと言おうと第8話冒頭の白鐘姉妹と恋太郎のあいだで導入的にかわされる「しりとり」が最後までずっとつづいてもいい、つづいたらいいのにと思ったのはたしかだし、第9話の双樹と恋太郎がデパートで繰り広げる白々しい過剰なまでの騒乱もすきなのだ。深夜ずっと、何ヶ月も何年もこの作品が放送されていて、偶然、あるいは不意に思い出してチャンネルを合わせる、底の澱みが掻きまわされ、流れ出す。だからDVDとかパッケージングされた形であらたまって観るのはなんかちがうなあ、と感じてしまうのだけど……(でも観るだろう、何回か観逃しているので)。


  ともかく作品がどう展開しようがかまわないしそもそも関心が薄い、落としどころがどこであれ受け入れるし受け入れるほかない。いまふと思ったのだけど、大道珠貴の小説*1のようなものをちょっと期待してしまうのだ、たとえば限定的ながらその限定性(の終わり)を前提にしない肌にひりつくような幸福さ、というか……。いや、残り二話のことではなくて。

*1:文庫版『裸』のあとがきがたまらなく好きです。この人の小説を読むと「天性の小説家」というほとんど撞着的な物言いが浮かんできて仕方ない。全身小説家、というようなシステマティックな感じとはまったくかけ離れた、しかし必ずしも軽やかだというわけではなく、感性というようないわゆる「手癖」のようなものに回収していいものでは断じてない。不思議だ。