覚え書き


  金沢21世紀美術館にて"フレデリック・ワイズマン/人間観察の極意"。時間の都合で今回観たのは"Welfare"(福祉)、"Titicut Follies"、"Juvenile Court"(少年裁判所)の三本。映画とはつまりどういうもので、またどういうものでありうるのか、ということを映画のことを知らないひとに問われたなら、またそれを一本の映画で示してほしいという無茶な要請を受けたのならばWisemanを一本選ぶのがいいだろう。フィルモグラフィーから選ぶなら"Near Deah"(臨死)か"Belfast, Maine"がいいかなあと思うのだけど今回観られた三本のなかで選ぶならば『少年裁判所』だろうか、前二者には福祉センターや精神異常犯罪者の矯正施設というかつてどこかにありまたいまなおあるかも知れないそれぞれの現場に立ち会っているのだという感覚に浸されるのだけどこの作品は「……しかし実際はないのかも知れないしなくたってかまわない」という字余りのごとく付け足される阻隔的なリアリティがあくまで視覚として迫り、持続する(どの作品にも言えることなのかも知れないけど……「裁判所の大人が罪を犯した子供と対話をする」という多少劇的になりがちな場面を淡々とある意味粗略に重ねているから露骨にそう見えるのかも知れない。いや、なんというかカメラの前でそういうことがなぜ行われているのかがわからなくなるのだ、裁判長と検事と弁護士が裁判をどういう方向で進めるか別室で相談しているところとか)。


  ペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』においてはいつどの段階で撮ったのかはわからない(本当は初日に撮ったのかも知れないし半年くらい経っていたのかも知れない)一場面にさえも「二年間対象に密着し撮影した」という事実(時間)がたしかに刻まれていたのだけどワイズマンの作品はまず何よりもカメラが現場に立ち会い、時間とともにそこに居合わせ、編集でそれを組織しなおす……「二年」という対象の置かれている環境を追い込み一変させるような大枠の時間の流れを感じることはほとんどなく、一定の限られた期間の中でほとんど場当たり的に状況を取り込みながらカメラがまわされているようにも思えるのだけど『福祉』のチョコバー男の長い独白であるとか(《待つよ、退院以来124日待ったんだ……ゴドーを》)『チチカット・フォーリーズ』の施設から運び出される遺体、『少年裁判所』の(刑事裁判所に送ることなくあくまで「少年」として裁きを受けさせるために)自分の有罪判決に加担する弁護士を睨みつける被告少年の険しい目つきにははっきりと作品としての、またその終わりを示す刻印が穿たれている。ワイズマンを観ると映画とはやはり方法なのだなあ、ということをあらためて思う。カメラの存在を画面から周到に排除し、登場人物は決してカメラ目線になることはない。それでいてズームアップやパンなどの映画的撮影法はしっかりと活用されている。「なぜこのような劇的な場面をたまたま撮ることができたのか」と何度も驚いてしまうのだけど、しかしそれはカメラがそこにあったから起こりえたのだ、たとえカメラの外で日常的に繰り返されていることの一断面をたまたまカメラが捕らえたにすぎないのだとしても眼前の画面で起こっている出来事はやはりカメラの前だからこそ起こりえたのだとしか言えない。「カメラがそこに存在する」ということ自体が演出でありまたそれ以上のものである必要はない、そしてそれが作品を形作る演出でありうるにはカメラの存在が完全に消去されていなければならない。いかなる方法によって演出をしないことが映画自体の演出でありうるのか……。