狂っている。何がか、というとアニメ『ドラえもん』がだ、いやドラえもんそのひとが、つまりは水田わさびが。絵柄こそ原作に近づけているのかも知れないが作品全体の印象は原作初期とも後期ともちがう、もっと泥臭く、やや一面的でそれゆえときに過剰だ。今回は開始早々どこでもドアで部屋に飛び込んできたドラえもんがひたすらタンバリンに興じていた。見せびらかすようにタンバリンを連打しながらのび太に宿題を早く済ませるよう促す。狂人にしか見えなかった。この日は仲間と楽器を持ち寄って楽隊の練習をする約束があり、そのためにのび太を急かしていたということがすぐに明かされとりあえずはドラえもんとタンバリンというあまりに非日常的ながらこのうえなくしっくりくる組み合わせには納得できるはずなのだけど(この男、マラカスを持っていたこともなかったか)だからといってあの狂気の印象が少しでも拭い去られるわけではない。仲間と楽器の練習をするためにタンバリンを用意していた。彼はそのことが楽しみで仕方なく、また宿題に励む仲間を鼓舞するためにタンバリンを叩き鳴らしたのだ……。この類推による因果関係がスムーズに連絡していればしているほどシークエンスごとのドラえもん水田わさびの立ち居振舞いが狂気じみて見えてくる。「呪いのカメラ」のような原作初期の喧騒に類した雰囲気を持つエピソードを見てもなお「ちがう作品を見ているかのよう」なのだけど(90年代のもののほうがよっぽど忠実だろう)ただ気がついたら他人事のように肉薄している狂気だけは原作のものだ、そして引きずるように地を歩み、声を出すドラえもんの姿はほとんど邪神そのものだ。それでいてどこまでも気安く、不意打ちでかわいささえ感じてしまう。なんとも度しがたい。源静香の世界に対する距離の置き方(無関心)も異様だとは思うのだけど……とにかくいまさらながらこの新体制を歓迎する。劇場版『のび太の恐竜2006』がどう仕上がるのかも興味がある。いっそ順番に全部リメイクしていってもいいんじゃないか(まあ、かつて竹熊健太郎が指摘したようにこの種の面白さを抱えたままで不安なく多くのひとに長く受け入れられるのは困難だと思うけど)。


  もう何もかもに飽きた。そう思い、そう書く。念を入れて口に出しさえする。しかしそれはまったくの嘘なのだった。それを思った瞬間からすでにそのことには気づいていた。そして気づいていたことに実際に口に出すまでは気がつかなかった。「ただ書く」ということができなくなってからいったいどれだけの年月が経つだろうか。自分以外の他人が見ることのない文章を書くということを身体が許してくれない。簡単なメモでさえもとる指がない。思い、考え、あっと口に出し、そのまま忘れるかその断片を鼻頭の他人に伝える。いまなら携帯メールで送り、「返事の書きようがない」という苦言でももらう。いくつのすばらしい思いつきが何の形を得ることもどこに定着することもなく中空に消えたことだろう……という気になる。ほんとうだろうか。書けることは書いたことだけだ、それは振り返ることでのみ確認できるというわけでもなく、決定論的に書くことの内側に潜んでいるわけでもない。ただ書くことにより書いていなかったという直前の状況を忘れる、字が残り、そのぶん余白が消える。書くという具体的な行為によって身体と物質のあいだに摩擦が生じ、抵抗が穿たれ、それと無関係に文字が紙やディスプレイに現れる。経験という頼りないものが叫んでいる。その字は偽ものだ、はやく消してしまえ!