深夜のアニメ『かみちゅ!』がおもしろかった。本でも美術でも映画でもかまわないけど何かをまさにいま受け取りつつある状況で受け取ることによって生じる抵抗や衝突によって派生的に浮かんできた様々な雑念やかつて中途半端に展開されたまま放置されていた考えが並列的にばらばらの方向に育ちはじめいつのまにかそのとき受け取られつつあったはずの何かに取って代わってしまっているのにまだ何かを受け取る行為は持続していてふと何らかのきっかけで受け取ることその持続を断ち切ってしまうと感覚を媒介とした意識と外界のあいだの抽象空間で勝手に育ちつつあった考えはそのままそこで手放されてしまうが人間の感覚は程度の差こそあれたいていは内に向かって外に向かって開きっぱなしであるため手放され放られ隅に追いやられた諸々の考えが熱を完全にうしなうことはない(熱いうちに打てといわれる金属が目下曝されているところの熱であり動いていないときであれ動的な状態でありつづけるその様態)。で、考えていたことを口に出したちまち舌がもつれ、それでも言葉を継ぐ。身振り手振りを動員させ、寸前の言葉にあわてて疑問を差し挟み、それを振り払い、たちまち飛躍し、立ち戻り、でも立ち戻ることができず話の流れに任せ、それでも我慢できずに強引に注釈を入れ、その注釈に夢中になり、そのことへの疑念を慎重に口にし、その疑念を笑い飛ばしながらもつれた舌を歯の裏にこすりつけ、で、何食わぬ顔で「さっきどこまで話したっけ?」……しかしこんなことを話そうとしたんじゃなかった、伝えようとしたことの核心からは程遠い、といつも話し終わってから思う。もっと的確な言葉、妙案、魅力的なイメージがつぎつぎと頭に浮かび、しかしすでにそれらの言葉の出番は終わってしまっているし何らかの偶然や奇跡や神のいたずらが起こってふたたびその機会を手にしたところでまた同じことしか繰り返せないんじゃないかとも思う。そしてその考えは熱を奪い去られることなく抽象空間の隅っこで待機の状態に入る。


  作家のアップダイクが書籍のことを「外部化された記憶」と書いているのをむかし読んだのだけどそもそも記憶の起源は外部にあるのだしそれが人間にとって記憶として作用する限りにおいて記憶は呼び起こされたり反芻されることによって外部に返される……いや、寄越されるのはあくまで言語としてであって、言語として出力される前の記憶、ではなく、言語の源泉としての記憶はやはり意識と外部のあいだに引っかかっている(のだけどこういう言い方はやっぱり空間的イメージに頼りすぎて怠慢だなあとも思う)。しかし意識も外部も引っかかっているもすべて言語であり、だから言語として外部に記憶を返しているといってみたところでほとんど抽象的な言語の領域での堂々巡りでしかないような気もしてしまう。ここまで書いてぼんやりと思い出していたのは保坂和志の小説とベンヤミンのエッセイで、まさにそう書いているいまある種の生々しさをもって「明け方の猫」にあった、死にかけた猫のミィが世界に何を送り返すのか……ということをめぐる散文的な記述が記憶のうちからせりあがってきて、おもしろかったとか傑作であるとか「考えさせられる」とか我が意を得たりとかそういうことではぜんぜんなく、ただ単にこの作品が書かれたことにあらためて感謝の気持ちをおぼえ、またそのことを表明せずにはいられなくなった(ので書いた)。このさして長くない小説を読みはじめて読み終えるまでに二ヶ月近くかけていて、というのも猫である語り手が猫の動作をひとつひとつ確認しながらなぞっているはじめのほうの件りを読んでいて急に胸がいっぱいになってそこから先が読めなくなってしまったからなんだけどべつにそれは半年以上行方知れずの実家の猫のことを思い出したからではなく、いや思い出してもそれは悲しさや寂しさを伴っていたわけではなく単に思い出していて、しかもそれは猫が家の中でまったくの独りでいるとき、そして視線は猫を見ていながら同時にその猫であるという感覚、「私が」という主語が必ずしも介入しない偽ものの記憶が瞬間で沸きあがり、思わず泣きそうになってそのまま本を閉じるに任せた。ところで単行本にいっしょに収められた「揺籃」はまだ読み終えていない。一行一行に読んでいる時間に波風を立て、行動に駆り立てる不穏な気配が漂っていてこれもまたなかなか読み進められないのだ。思えば『カンバセイション・ピース』も読了するまでに一年近くかかってしまったのだし……。