いま聴いているRUINSの1986-92ベスト盤に入っている"RIPPLES"のイントロの徐々に下がっていくベース音(とヴァイオリン?)が近頃はあまり耳にしないような気がするヤンマーディーゼルのテーマみたいな旋律でつい笑ってしまったのだが郵便局といえば一度だけ年末の年賀状仕分けのアルバイトに携わったことがあって、そのとき特にすることもないので(周りは仲間同士で申しあわせて応募していたと思われる年下の連中ばかりだったしそうではなさそうなわずかな連中は誰とも目をあわさぬように周到に視線を伏せるかなぜか郵便局の上階の真ん中あたりに吹き抜けになって外に開けた正方形の小さな庭園があり窓ガラスで取り囲まれたその空間を中心として正方形の四辺がそれぞれ集配所や事務室や階段へとつづいているいわば卍模様のヴァリエーションのような廊下をうろうろしていた)休憩室のパイプ椅子に身体を預けて後藤明生の『首塚の上のアドバルーン』をずっと読んでいて夢中になっていた(んだけど当然アルバイトの期間が終わる前に読み終えてしまったので『アルゴールの城にて』とかレーニンの哲学ノートとかを読んでいたと思う)。で、そのことを思い出したので今日は電車の中で『しんとく問答』を読んでいて、あるいは読んでいるときのテクストの表面を宛てもなく彷徨しながら蹴躓いたりうずくまったり尻餅をついてはじめてあらぬところで尻餅をついたものだと気がつく……そういう読むことの実際的な感触から郵便局の弛緩したよそよそしさと混じりあった『首塚の上のアドバルーン』の読んだ、読む、読みつつある感触を思い出したのかも知れないけどしかしそれはどっちでもよくて何というかこの小説の枯れ方は半端じゃない……いや、かなりおもしろい小説集だとは思うのだけどそのおもしろさは徹底的に読むことの内側に封じ込められ、しかしその内側に入り込むとたちまちそれは内側から押し上げられるように解放され散逸する(ので他人に伝えいざなうのが困難だ)。「『芋粥』問答」はどこかで誰かが「明治大正文学を読み直す会」のみなさんに語りかけている講義内容の全体がそのまま作品になっていて、いちおうは講義形式なのだから話が脱線と迂回を重ねてどこかにいってしまうことはなく講義であるという時間的、内容的束縛のせいでその都度疑問や引っ掛かりが放り投げられ置き去りにされてはいくものの連想的に織り込まれる引用や言及によっていちおうの「結論」に向かって進んでいき終わりを迎える。しかしそれはあくまで講義としての結論にすぎない。ので、小説の結論ではない。のに、小説は終わる。のは、講義が終わったからで講義の全体がこの作品なのだから講義が終われば小説は終わって当たり前なのだ。けど、講義の結論は小説の結論ではない。「そもそも小説は読んでいる過程がすべてで結論などないのだ」というのはもっともらしいし誰かさんも繰り返し言っているかも知れないがこのような耳障りのいい定型句を口にするだけなら簡単だし誰かさんが口にすることなく示そうとしていることを何食わぬ顔で奪い去って自分勝手に復唱してしまうのは破廉恥きわまりないしそもそもすべて誤解と思い込みと早とちりの産物であるかも知れないし第一そんな言葉はすでに語り手によって用意されてしまっている(「文芸作品の内容と文章との関係」について千円札を例にとって話すくだりとか)。黙ってただ読め、ということか。それでじゅうぶんなのか。じゅうぶんであるとして、果たしてただ読むことなど可能なのか。可能であるとして、それを可能ならしめるものは何なのか。


  DVD『珈琲時光(過去の日付にリンクしてみよう)の映像特典についている「夕張篇」と名づけられた未公開シーンはいったい何なんだろうか……と後藤明生に引きずられてあらためて思う。そもそもこのシーン全体が映画のラストにあてがわれる予定だったらしくいちおう最後は一青窈によるエンディング曲もかぶさってくるのだけど実際には痕跡さえ残さずばっさりとカットされてしまったわけでいわばこれは宙ぶらりんでどこにも行き場をなくした映像ということになる。たとえばモノクロで撮られた大昔のホームビデオの、そういう「ありえない」映像の「ありえない」視線に取って代わって、「ああ昔の世界には色がなかったんだなあ……」と本気で信じてしまうような捩れた実在感のようなものがこの映像にはあって、というのも映画であり映画でしかなく映画で自分がもっとも観たい映像で、一青窈浅野忠信が宿屋で外を眺めながら何気なく言葉を交わしたりお茶をすすったりするところとか盲目の叔父さんに連れられて(とはいえ盲目なので一青窈の肩にずっとつかまって連れられる格好になっている)夕張の繁華街(だった場所)をうろうろするところとか本当によくて……もちろん本編からこぼれてしまった剰余の部分ではあるのだけどしかしそれゆえに映画本編と(その下位に属してしまうのではなく)並べて見てしまうし「行き」の場面ばかりが重ねられ「帰り」の場面や事の結果をさりげなく(しかしあからさまに)排除した映画のあり方としてとてもしっくりくる。


  ところでアニメ『奥さまは魔法少女』第二話をぼんやり見ていたら新人魔法少女クルージェの、いかにも「狙いすぎ」で「あざとい」と言われるようなしかし狙いすぎて何を狙っているのかがさっぱりわからずただ唖然と目を奪われるしかない唐突な一連の変身シーンを目の当たりにして、もちろん唖然と呆れながら目を奪われ忽然と動揺し、このときの感覚が反復するたびにちょっと平常ではいられなくなり昼間だとそれを装うのにほんのわずかだけ努力を要する。変態だろうか。作品としては前半がちょっとした傑作で後半はよくわからない『天使になるもんっ!』を髣髴とさせる雰囲気で、つまりは良くも悪くも「先が長い」ということなのだと思う。無駄に発揮されたりこれ見よがしに投げ置かれているエロスを何とかしてほしいとは思うのだけど。あとやはりこれからクルージェが変身するたびに動揺しなければならないのだろうか。ウンベルト・エーコは「じき慣れる」と書いていたけど……期待半分不安半分。やはり変態か。