さしあたってうんざりして視聴をやめるには至らないしじゅうぶんな興味を持って見守るつもりではあるものの第三話の後半あたりから『かみちゅ!*1が(主に言語面において)本格的に鼻についてきたのはなぜなのか……と考えをめぐらしめぐらしきる間もなくHeidegger分が足りないのだ、ということに思い至った頓珍漢はもうすでに行き去り去った。かつて過分にもひたすら鞭打ってハイデッガーを馬車馬のごとく働かせる計画があった、おそらく1950年頃だと思うがどこかの編集者か大学生か酒場の親父の頭の中でその計画は執拗に丹念に細かく小刻みに練りこまれやがて日の目を見ることなく放棄されたのだけどハイデガー本人の死後三十年が経とうとしているいまこそ当時の姿をもってそれをとりあえずはこの国に復活せしめてほしい、端的にいうならすべての本の序文をハイデガーに書いてほしい。もちろん書下ろしである必要はなく(もう書き下ろせないわけだし)既存のものでかまわない。講義録ではあるものの『形而上学入門』などうってつけだろう。すべての本というのは言いすぎでひとまず詫びるしかないのだけど小説ならばまず本屋大賞上位十作あたりはまとめてハイデガーと差し替えてしまったほうがいいだろうし(五作くらいにしておく?)新城カズマ『黒のバベル』『星の、バベル』は上巻までならまるごとハイデガーでもかまわなかったろう(つまり上中下の三巻組みでよかった、と目下読んでいる最中なので言ってみる。余談だが1章目の見出しのあとにこの作品の大枠の時間設定が「西暦(AD)二〇〇一年九月」という形で示されるのだけどこれを見てまず「ああ、近未来の話なのか……」と思い、それからいまが2005年であることを思い出し「ああ、作者は近未来のこととして設定したのにもう追い越してしまったんだなあ」と思い、すぐにこの本の出版が2002年であることを思い出した。つまり作者はこの物語の起点を過去に置いて書きはじめたということで、だからどうだということもないけど……中原昌也が映画タイトルの後ろにつく公開年表記が2000年以後の映画はすべて2桁から4桁にならざるを得ないことについて『2001年宇宙の旅』や『デスレース2000年』を例に挙げて「なんか特別な感じになってしまうじゃないか」と嘆いていたその気分をほんのちょっと理解した、ということ。ところでデスレースは「2000年」だっけ「2000」だっけ……とふと気になってしまったので検索してみるとamazonが引っかかったので覗いてみたところ「一緒に買いたい」DVDとして『デモンズ'95』が紹介されていた。わかるようでわからないというか、趣味がいいやら悪いやら……いや、悪いに決まっているのだけど。ちなみに「2000年」は旧タイトル、「2000」はDVD化に際しての新タイトルでこっちが原題どおり。ぜひ「2000年」に戻していただきたい、そしてついでにHerschell Gordon Lewis "2000 Maniacs" を『マニアック2000』から『マニアック2000人』にマイナーチェンジしていただきたい。ややこしいというか単に意味不明だから)。小説のみならずゲームもノベル系ならばどんどんハイデガーを取り入れるべきだ。『さくらむすび』や『霊長流離オクルトゥム(仮)』ならばハイデガーの一人や二人攻略(?)キャラに入っているだろうから心配はなかろうけど『Fate/stay night』は最低でもセイバールートと遠坂凛ルートのあいだにハイデガーが必要だった。さすがにライター氏もそこまでうっかりものではないだろうから『horrow ataraxia』hollow ataraxia』*2にサーヴァントとして登場することくらいは期待してよいと思う。


  そういうわけでハイデガーを序文に。詩集にだって雑誌にだって。枡野浩一のなんたら歌集の序文にハイデガーを置き、雑誌『重力』の序文にハイデガー(その隙に松本圭二の詩をそっと抜き取っておこう。2000年以後ここ十年おそらくもっとも読まれるべき詩集のひとつ『詩篇アマータイム』がもはや容易には手に入らない現在とりあえずもうすぐ出るという第四詩集『アストロノート』を震えてお待ちいただくほかない)。だってあまりにもハイデガーを忘れているひとが多いではないか。ハイデガーを読んでいないひとなんていないはずなのに読んでないふりをしているひとが多すぎる、そしてその大半はふりではなく単に忘れてしまっているだけなのだ、なにせ誰もが生まれたときに眼球の薄膜の表面にハイデガー全文が一瞥できるような極薄のマイクロチップが貼り付けられているのだから。みなそれを読みながら育ったのだ、ハイデガーを通して世界を見ていたはずなのだ。視力とは眼前にとらえられるハイデガーのテクストの濃度によって決まるというのも通説だ、濃ければ近視眼なのか、薄ければ遠視なのか、あるいは乱視なのか……正確な対応はいまだわからないがともかく視界を覆うハイデガーの総量が変じることはない。そのはずなのに……やはり「ふり」なのだろうか、例のごとくあずかり知らないところで何らかの示し合わせでもなされているのだろうか?ならばやはり半ば無理やりにでも思い知らせてやる必要がある。エリック・サティだってはるか昔に書いていたではないか、《それにしても私は雨傘をいったいどこに置いてきたんだろう?》《あなたはどちらが好きですか? 音楽?加工豚肉?》《話題を変えよう。この点はまたあとで述べることにしよう》……その言葉を。

*1:実は勝手にゲーム『days innocent』みたいな(稀有で貴重な)雰囲気を期待していたのだけどやはり見当違いというか的外れだったろうか。もちろん視聴者の勝手な期待など無視してしまえばいいのだけどごく狭い期待の地平をあてにした恣意性ばかりが際立つアニメ特有の安定性に則った「悪ノリ」が前面化しないことくらいは祈りたい。

*2:なんだかずっと「おかしいなあ……」と引っかかっていて急にその違和感の正体に思い至りいたたまれなくなる。かつての不注意による誤字を修正するのは本当につらい。一度衆目に晒してしまえば一時間前に書いたものでもほとんどがすでに恥辱のきわみではじめからなかったことにしたくてたまらないのだけど恐ろしいことに昔作成していたHPの残骸がまだ処理されずにweb空間に転がっていてそこには七八年ほど前に書いた文章なんていうのも含まれている。別に消さない。いかに怠惰に生きているか思い知るがよい(がまあ思い知るまでもないのだ)。点的な怒りが飽和する。木造建築のように空間が内側から腐敗していく。でもそれでもいいのに……。最近思ったのは「倫理と信仰のバランスが狂っているのでは」ということ。でも狂ってさえいないのであればもう何の言葉をかけることもできないしなるべくならかかわりあいたくはない。それがお互いのためだ、とまったく自分の都合で思う。自分の都合だけで考えなくては駄目だ、こういうことは。(05年9月4日記)