井口昇については目撃したら些細なことでも書き留めずにはいられないし書き留めるだけでじゅうぶんだ。『キレイ』にも出ていたがそのちょこまかと上下する体躯の異様さに感動したしカーテンコールで鈴木蘭々に背中を押されている姿には涙さえ浮かべた。もちろん4時間近くあるこのミュージカルの印象がそれに尽きるということは決してないがしかし集約させてしまってもかまうまいとは思う、まさにこの作品全体を生身で体現している愛らしくも薄気味悪いかたまりが井口昇そのひとなのだ。戸張大輔の歌を自分の作品で使えてしまう(それを使い、それを使えてしまうという)度量もすばらしい(それにひきかえNaked Cityを使うMichael Hanekeは……と書こうとして単に言いがかりであることに気づいた。さきほど『ファニーゲーム』を見たばかりなのでついついこういう粗暴に流されてしまったのだけど……つまらなくはないしハネケ自体にはそれなりに興味は尽きないのだけどこの作品はどうも中途半端な『スクリーム』と『ありふれた事件』の掛けあわせにしか思えずまあそういう監督の舐めたというか見え透いた悪意がなんだかスッキリ後味悪くはあったがコピーどおり「映画史上最悪」かどうかはわからない。ところで「いったい映画を観ているのは誰か」ということが気になるのはやはりホラー映画を観ているときが多い。61年の映画『回転』で家庭教師の女が教え子の兄妹らと住まう屋敷(彼女と女の子が敷地内の湖のほとりで向き合う場面はぜひカラーのスチールを見てほしい。女性二人のまとうドレスの厚みもあいまってこの世のものならぬ景観になっている)のどこかしこで昼夜を問わず幽霊を目撃するのだけど(まんま『シックス・センス』という感じで、この映画が嫌いになれないどころか部屋でのんびり漫画雑誌とかロシュフーコーとかを片手に見て安易に馬鹿にする連中の片耳くらいはつねりあげたくなる理由が少し意識できた。余談だがその対象が『ミッション・トゥ・マーズ』や『A.I.』なら場合によっては殲滅する。『ヴァン・ダムinコヨーテ』ならばたぶんこっちから土下座で謝って返す頭で顎を砕く、予告編と冒頭15分くらいしか見てないけど……それでじゅうぶんだし最高だ)たいていは彼女ひとりしかその場にいないか使用人なり男の子なりが居合わせても彼女と同じものを見たのか見ていないのかなかなかはっきりとはしない。映画のスクリーンで見る限りは幽霊は彼女の視線の先にたしかにいる、それは光や空気やカーテンのすその揺らぎとしてではなく、物体として形象がそこにある。教え子たちに危機をもたらすものとして認識する彼女は幽霊に近づいていく。カメラはまず彼女の視線として彼女の肩越しにその幽霊をとらえる、それから近づいていく彼女の右の横顔をとらえ、ゆっくりと部屋の様子を映しこみながら左に回転していきやがて彼女の視線と重なるとすでに幽霊は消えている。彼女は目を離してはいなかった、間違いなく一部始終を見ていたはずなのにカメラだけが見過ごしてしまったのだ。John Watersの『マルチプル・マニアックス』ではちゃんとマリア様が空き地に現れて消えるまでの奇跡の顕現を一部始終カメラが見ていたものだけど……。もうひとつ。そんなに頻繁ではないがどうも以前からうたた寝のときに限って眠る直前まで読んでいた本の内容を夢に見てしまうことがあるのだけど(笙野頼子とか二回も)昨日は睡眠と覚醒の狭間をゆらめきながらゲーム『最果てのイマ』の夢を見ていた、ゲーム画面はそのまま保持され登場人物たちの立ち姿とその下半身にかぶさるようなかっこうでテクストが表示され、眠りつつあるという意識のままそれを読み、反芻し、それがまったく読み覚えのない、実際にはゲーム中で一度も表示されていない文字列であることに気づき、眠りつつ覚めているという意識の折り返しを全身で鈍く感じながらときおり時計を目視して時間の経過を確認し、ほとんど磔のようにベッドの中央で身じろぎひとつせずいまだ読んだことのない『最果てのイマ』のテクストを読みつづけ、不意に立ち止まっては作品についての思いに頭を巡らせ、眠りつつも半分覚めていることを証明するかのように実際に口に出してみせ、実際に音として外部に放出されたその声はまさに半分眠っていることを証明するかのようによれよれでくぐもっていて、その曖昧であまりに気持ちのいい過程の一部始終を枕元でずっと眺めていた)。関係ないが松尾スズキには映画を撮ったり大人計画のために新作を書き上げたりするのはほどほどにして(監督は二度とやらないほうがいいと思うが)過去の作品の再演をするか『キューティーハニー』のようなサラリーマン役ばかりを延々と演じていてほしいものです。