“それもまたいい想い出”に抗って


 「どけよ!」と耳の裏側からどやされ右の肩をわずかにねじって背後に視線を送っても誰もいない、それで向き直ってふたたびポケットに両手を突っ込み肩全体にうなじを埋めて前後に屈伸させていると今度ははっきりと足許から耳たぶを立てに刺し貫くように「どけよ!」と声があげられそこでようやく声の主と目が合った。子供だった。子供という固まりで、柔らかな接触と省略と容赦のない伝達が短い二本足でしっかりと大地を押さえこんでいて、しかし意外にも語気の荒さのわりに子供はあっけらかんとした表情をしていた。道を譲ってみるとその子供はあっさりとそこを通り抜けた、通り抜けたというより通り過ぎたというだけで、なぜならそこは往来の真ん中というわけでもなかったし迂回しようのない狭い通路を塞いでいたわけでもない、川沿いに東西に伸びる小高い歩行路のくぼんだ箇所にある草むらで覆われた石段の降り口に、しかも万が一利用するひとがいても決して邪魔にならないように足を半分草むらに突っこむ形で、そう心がけたわけではなく結果的にそうだったにすぎないし、つまり結果というのはにもかかわらず子供の歩行の邪魔であったかのごとく命令口調で移動を命じられたこと、そう受け取った瞬間に成立した文脈という残滓だけをかき集めたような根拠のない思い込みに支配され、支配されたと思いこみ、そう思いこむ間もなく動き、動いたあと思い、そのこと全体をあとから追想しながらゆっくりと事実を言葉で囲いこんでいるかのように捏造し書いているということで、しかし子供はすずしい、というかきわめて乏しい表情で草を踏みつけながら「そこ」を通り過ぎると弓なりに歩行路のまばらな砂利のうえへと進路を傾けた、むしろわざわざいびつに張られ引き絞られた弦をなぞって「どけよ!」という切り詰められた言葉だけを伝えるために傾けた歩行線を無理やり矯正した。おそらく言葉は命令ではなかった、命令だと受け取る限りはどうしても理解しがたく無理がある、それでは命令ではなかったのだと考えるほかない。目に見えない言葉をさも目に見えるように扱い、そしてもともと目に見えない言葉に対してさも目に見えるかのような圧迫を感じ、縛られ、影響され、なぶられ、ついには責任まで感じてしまう……だがすべては勘違いなのだ、だって言葉は命令ではなかったのだから。ただ伝えうることのみを言葉は伝える。そう許す。命令形をまとって。許される?子供に。ばかな……。