今日の類似(あてずっぽう編)

  福居ショウジン『Rubber's Lover』と蔡明亮『河』。試しに三十分くらい観てみて。食事をしながらアニメ『ぺとぺとさん』でも観ようと思って手許のビデオをデッキに入れたらいきなり飴屋法水の横顔が写っておどろいた。数年前に録画してどこかに仕舞いこんだまま忘れていたはずなのに……と漠然とした不吉さを皮膚に滑らせつつ隣に置いてあったビデオを入れてみたら今度は録画した覚えさえまったくないBressonの『少女ムシェット』が現れてさらに気が滅入る。にしてもなぜこんなところにだれがいつどこから?脱力しているといつのまにか食事は終わってしまいしょうがないのでかろうじて録画だけはしていた『かみちゅ!』を消化しようという若干の気乗りのなさで第六話を観て観終えてとうとうギヴアップ(保留、七話までは)。作り手(脚本家?)の慢心ばかりが前面化してほのぼのと殺意が手の内でわいてはしぼむ。本当は「動くこと」それ自体に価値があるわけではない、アニメーション受容の狭い枠内でのみ画期的であったり進んでいたり豊かであったりしたってしょうがないと思うのだけど(作品として、ですらなく。もちろんあるのはひたすら偏向された「イメージ」だけで実際には豊かでもなんでもないと思う。いちおう三話目までは好きなんですが……猫さえしゃべらなければ……)。


  小説というものはかつて「重さ」であった……かどうか。かつて?ではいまは「重さ」ではないのか、というとそうとも言えない。しかし小説は決して体育館いっぱいに敷き詰められた原稿用紙に書かれてあるわけではない。小説とは活字であり書籍であり両手にかかるその重みであり絶え間なく波うつ身体の軋みだった、本によっては二段に組んであったりして、でも三段以上は組みすぎで眺めるのには適しているけどなかなか読んでいられない。ページの末尾から次のページの頭まで、そのわずかな断絶を結びながら手早くページをめくっていった。重さが右から左へ、あるいは左から右へと移っていくのが手に感じられ、また視覚でもつぶさに確認できた。たとえば読んでいるのが福永信『アクロバット前夜』ならば推移と運動が読む行為とほとんど重なる。内容の線的なわかりやすさも重要だ、しかしわかりやすすぎるという気もしないでもない。これでは読書における頭の働きがジョギングやうんていにおけるそれと大差がなくなるではないか。だからこそわかりやすかったのだ、と言うこともできるし結果的にはこの本に納められたどの小説にもおおむね好感を抱いている。読んだのは病院に通っていたころだ、患者としてではなく患者を統御するシステムの自由意志なき自覚ある一部分として年長の女の子たちと抱えきれないほど大量のIDカードをそこらに撒きこぼしながら休日の人気のない病院を歩きまわったり入り組んだパイプの陰でディスプレイとにらめっこしたりしながら「おでん!」「おでん!」と真夏にもかかわらず「おでんコール」を絶やすことはなかった。あとマインスイーパ。借りてきたのは図書館だった。『ウィトゲンシュタインの箒』とかいまは亡き四谷ラウンドの『皆殺し文芸批評』などと一緒に借りてきていた。「貧乏人は本など読むな」というのはいまも昔も思っている。音楽なら聴け、映画なら観ろ、でも本など読むな。図書館を無料だからといって利用するような読書乞食には決してなるな。せいぜい雑誌のバックナンバーとか絶版本とかを閲覧するにとどめておけ。しかし当の本人は貧乏人のくせ『並みには勝る女たちの夢』が小説としていかに面白いかを市立図書館で知ったのだしそこには田口賢司『ラヴリィ』やDon Delilo"Ratner's star"だって置いてあったのだ("Operating wandering soul"を読んでみようという無謀さえ冒しかけた)、でもそれだけだ、たいしたことではない、やはりドラえもんに先取り約束機でも出してもらったほうがはるかにましだと思う……(絶命)