《ゾンビの腋臭は気にならない》


  具体的にテクストととしてその機微が描かれていたかどうかは忘れたがロビンソン・クルーソーはずっと半笑いの表情のまま生活していたんじゃないかと思う。不用意な人間が然るべき箇所でさもある確信を伴っているかのように「自然さ」を口にするときそのひとはいったい何を代理しているのか、ということが気になった。何かを代理していることは明らかだった。ある一方のものを自然だと言い募ることでそれを肯定したり認めたり賞賛したりするのではなくあくまで自然さのレッテルを貼り付けているだけで何事かを示そうという気配は感じられない、すなわち自然さそれ自体には意味はなく、自然さを口にすることはその対象の自然さを口にすることですらなかった。自然さは言葉の節々に塗り固められ、その塗り固められ方そのものであり、際限なくつづけられる同語反復の徴で、際限なくつづくどころかただ一度の同語反復の手間さえ惜しまれ、「○○のほうが自然だ」と口にすることですべてがすでに決定されてしまっているということを明示する……までもなく決定されてしまっていた。一種の魔術ではなかったか、と言われている。ひとたび自然さが口にされてしまえば肯定しようが否定しようが関係の枠組みに放り込まれてしまう。もちろん関係とは言葉でしかなく自然はいつもその外側にある、しかし魔術の言葉はその自然をたやすく言葉の内側に引きずり込んだ、自然さとして、そして一度引き込まれてしまえばさして労することなく誰でも自然さを反復的にあらしめることができる、自然さとして(なにせ示すまでもなくそこにありつづけていたのだから)。知性と呼ばれることもあった、そしてそう呼ばれた知性とは等しき教育の賜物でしかなく、可視的なものだけをつねに相手取ってきものだった。世俗的な象徴体系の中で代理するものと代理されるものを正しく把握しておくこと、言葉よりはじめ言葉を追い掛け言葉でピリオドを打つこと、そうしてさえいればいい、矛盾や葛藤や責任を現実の側から勝手に取り出してきて適当にもてあそんだあと突然あらかた飽きて放り出す、それでも安心していいのがうるわしく尊い教育システムだ、何もかも現実に還元されていくから環境問題など起こりようがない。詩的現実、言葉と現実が共犯関係に陥ったとき自然さと称して詩的現実が「現実そのもの」と入れ替わってしまった。かつてそういうことが一度だけあった。一度あればじゅうぶんだった。


  そのとき、たとえば遠くて近きソヴィエト社会においてマンデリシュタームには《生活というものがな》かった……とチュコフスキイの息子の印象を跡付ける。説明するまでもなく生活は国家から奪われていた。おそらくマンデリシュタームは夢を見るまでもなかったし夢を見るために眠る必要もなかった。夢において言葉は作用が剥きだしのまま機能を奪われており、また機能を奪われた作用をかろうじて詩と名づけてもいいような気がしているからそう思った。ヴィクトル・ペレーヴィンの小説をまたちがった読み方で読んでみよう、いやもう読んでいるし実はとっくに読んでしまっていた、でもまたいつか、と約束する……。