近況


  ★ともかく、ともかく卑しいことに書きたくなってしまう。詩とは声ではなかったか。肉体の内で波打つ声そのものは視ることができないし聴くこともできない。声は濾され、篩われ、間引かれ、そうやって抽象へと昇華されることで言語として、すなわち音声や文字や振る舞いといった各々の形式を通して外部へと表出された。詩の朗読(リーディング)というものを見たことがある。感想を言えばおもしろかったし楽しめた。現場ではあからさまにそしてやすやすと詩は肉体を手に入れそこに血を通わせていた。詩がとっつきにくく理解できないというならばまず朗読を聞けばよい、と思った。そこにはわからないことなどない、あんなに見ようととしても見えず、聞こうとしても聞こえなかった詩が、声が、現場では触れ、手にとることさえできた。血肉化された物語がエンターテインメントと呼ばれ流通するようにその場で流通していたのは血肉化された詩、すなわちエンターテインメントであり、しかもそれは「詩の」ではなく「詩という言葉の」、「解釈としての」エンターテインメントだった。だから楽しめた。世界、見えるものと見えないものの総体が身体の外にあり、また身体の外にある限りにおいて世界を総体として感じることができるのだけど当たり前ながら身体も世界のただなかにありその一部なのだ、身体と世界にあわいを設ける必要などなく、しかし摩擦や折り返し、その感じや覚えなどが響く場所として一個の肉体を想像的に囲い込み、つまり肉体を掴みなおし、その掴みなおしの過程において必然的にこぼれ落ちてしまうものは多い、というかこぼし落とすことでしか掴みなおすことはできないのだけどそのやり方は他人から教わったのだし教わるほかないのだからしょうがない、だがそのたどたどしい手つきはもはや血肉(心持ち「受肉」という用語を透かしてみてほしい)化した詩とは無縁なのだ、目の前で流通不能の個体から送られてくる多様な言葉と音声と抑揚と身振り手振り、そのパフォーマンス全体……手馴れたものだし技術もある、しっかりと観客の視線を引き受ける度量もあり言葉も慎重に選ばれそれなりに練られてもいる本当に何ものにも換えがたい人々だった、そして換えがたいだけだったのだ。提案がある。いっそ自作の詩を読むことをやめたらどうか(中断)


  ……うまく書けなかったし書けない過程で「近況」という計画を破棄せざるをえなかった。本日の松本人志の言葉を借りれば「10秒やぞ!?」といった心持ちだがもちろん誰に頼まれたわけでもないし本来ならば何の義務も責任もない。電車のなかで思いをめぐらしていたときには「読み手に何らかの力を与えない詩など必要ない」というくだりまで辿りつけるてはずだったのだがいまやぼんやりとした動力らしきものの残骸が手許にあるだけでどこからどう介入すればいいのか見当もつかないのだった(申し添えるなら「力」というのは必ずしも鼓舞や救済という形を取らないしまたそれは一方的に与えられるものでもないだろう)。


  ひとまず金時鐘詩集選『境界の詩』について書き損ねた記録(正確にはすべては〜によって促されたことであり部屋で落ち着いて鑑賞するようなことはできなかった。開いては閉じ、開いては閉じ。その繰り返しに押し出されたわずかな時間の中でかろうじて書くのを試みあえなく失敗したというだけ)。
境界の詩―金時鐘詩集選とりあえず買おうじゃないの。