誰に聞かれたわけでもないのにとりあえず目についた近しい肩を片っ端からたたいて「読んだよ!」と言ってまわりたいほどの嬉しさがこみ上げてきてしまった……そしてとりあえずつい最近「短歌に似たどうでもいいなにか」を吐き出してしまった某氏への直接伝えるにはやや憚られる具体的な進言としてベケットの小説(できればドゥルーズの評論とか「幽霊トリオ」が入っている……『消尽したもの』?こちらも併せて)と綿矢りさの『インストール』文庫版をお薦めさせていただこうと思った。頼みますよ。


  今月はじめからゆっくりと大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』を読んでいてまだ終わっていない。これは予兆じみた曖昧さをずっと持続しながら明快に文から文へ結ばれ進んでいける小説で、それでも区切り区切りで読みながら固まりつつある印象や言葉などの記憶のつながりや様相を逆なでされ、はじめからの、あるいは該当箇所からの再読を強いられる。その「箇所」はおそらくひとそれぞれ違うのではないかしら……と思いながら馬鹿正直にそれを実践してしまうのでなかなか読み進めることができないし、またそれは部屋でおとなしく読んでいるとどうにも落ち着かず交差した足の根元から全身に細かな痙攣をいかにも神経質なばらけたリズムで伝播させてしまったりするため出かけるときに必ず携帯して電車のなかで集中的に読むようにしていることにも因る。とにかく本当に面白い小説だとしかいえないしいう気もしない、ひとつだけいうならやはり大江氏は馬鹿読みの小説を書くのだなあと思った、ということくらい。読んで書き、書きながら読み返す。馬鹿(ここに入る助詞は「の」でも「な」でも結構)読みには馬鹿で対抗しないといけないし、ちょっとなめてかかるくらいがちょうどいい、いずれにせよ曖昧模糊としたまま明快に進むというただならぬ状況にはすぐに気がつくだろうしそしたら腹を据えてこちらから介入してやってもいいのだ。そうして部屋の周りに(正確にはベッドの足許周りに)『さようなら、私の本よ!』の気配をばら撒いたままゲーム『School Days』やA-10氏による同人誌『テコプリ』をおっかなびっくり眺めたりなどしていて(ついでに野坂昭如を聴いて岡田あーみんの消息にしみじみと思いを馳せたり。野坂はCDではやはり『鬱と躁』が決定盤で、これだけで一生まかなえる。「サメに喰われた娘」と「黒の子守唄」が同時収録されているのが何より偉い。しかもライヴとMCも聞ける。この一枚で本当にどうしようもないひとだということがわかる)、その流れで綿矢りさを買って(作者本人にとってはこの流れはかなり迷惑だろうが)まずは「インストール」をぱらぱらと読み返していたのだけど、かつて単行本発売時に友人から借りた本を手応えのなさを感じながらその手応えのなさを好ましく思いきもちよく読み終え、「何年かあとに必ず読み返したくなるだろうなあ」と予感したいくつかの部分とはまったくちがう部分に強い引っかかりをおぼえてついつい同じところを行きつ戻りつぐるぐると視線をまとわせたりしていたため新作「You can keep it.」を読んだのはついさっきで、そして読み終わったとたん、というか読み終わる少し前あたり、あまりに短いのでまさか「そこ」で読み終えてしまうとは思わなかったのだけどともかく主人公が女の子に嘘を見破られてから友人たちとインド行きの話をはじめるくだりで居ても立ってもいられなくなってきて、そこで息を詰めたまま171ページ目をぱっとめくると主人公の《顔が、身体が、ぶわっと火照》り、そして《授業が始まった》のと同時に息をつき、嬉しさのあまりまたはじめから読み返してしまった(これはファスビンダー『小カオス』を観終わったときと同じ反応だ。この10分足らずの短篇は本当に一分の隙もない映画で、しかも具体的な暴力を描き、挑発さえするような態度でありながら『「ヌーヴェルヴァーグ風」風』という形式性の軽やかさによって作品そのものが暴力と化すことなく端的にいえば身悶えするほどカッコイイ)。それにしてもこの本の構成はうまくいっている。「インストール」とくらべれば新作は格段にうまくなっているのがわかるし、また処女作の生む不思議な感興、ポイントポイントをおさえつつ空回りし、それでも変なところでストンと落とし込まれて全体として奇妙な安定感を形成する感じもまたそのときなりのうまさに裏打ちされたもので(でも作品としては16歳がうっかり書いてしまうこともじゅうぶんありうるようなものだと思う。だから面白いのであって凄いのではない)、それが一分の隙もないとさえ思える「You can keep it.」の読後感がフィードバックしてくることでより明確に炙り出されてくる。ただし最後の解説だけは破り捨てたい。