(前回までのあらすじ:ANIMAL COLLECTIVE 『feels』を手動リピートしながら(つまり一回だけ聴こうと思っては感動し興奮しながらまた頭からリピート、を繰り返し)書いていた文章が書き終わった直後の瑣末な操作ミスですべて消えた。寝た。起きた。黒く塗りつぶされた11時間を揺りかごの中でやり過ごした。家に帰った。豚汁をすすった。録画していた数回前のアニメ『ぱにぽにだっしゅ!』を観た。気がついたら泣いていた。きっと先週もそうだった。おそらく先々週もそうだったし来週もそうなのだろう。後戻りできない涙腺の回路の壊滅的な齟齬に愕然としながら、あ、これスタニスワフ・レムじゃん……とついついVTRを巻き戻してしまう。なんだか恥ずかしい)


  本当に皆さんものを考えていらっしゃいますなあ、と強烈に臭い呪わしく吐き気の催す無条件に愛し敬い尊ぶべき鈍く輝かしき他人様のお歴々の愚かな肩の根元を引っこ抜きながら死ね死ね全員等しく死んじまえ!と手放しの賞賛を浴びせてまわりたいしそうするつもりだ。生まれてから休み休み延べ三ヶ月間ほど頭が砕けるほど悩みぬいたものだが結局は役に立たないひとなどこの世にはいない。そんなこと視点をちょっと変えれば済む程度の話だったのだ、ただ在るということによって命題を先取りして証明されつづけていたのだ。《なにも考える必要などないのだ、ただ彼らのように考えていればいいだけだったのだ》ということだ。しかしそれができない。桜庭一樹『ブルースカイ』を読みながら何度も思考が逸れていくのを感じた。体質として小説的な、小説に向かう際の思考形態がもっともしっくりくるしむしろ小説以外に向かう際にもあるいは日常会話の中でさえそれが発動し組織されてしまうのでまあ別段困りはしないがはたからはさぞ散漫で痴呆的にうつるのだろうなあとは思う。局面局面での思考の態度や意識の表面に浮かんでくる言葉の襟足、その論理の駆動系はそれぞれ連続しているように見えて実は明確に切断されているしその切断あるいは切断面によって運動をかろうじて持続しているとさえ言える。たとえば小説は読み終わってしまえばいったんは終わる(俯瞰図がでっち上げられてしまうのだがその図はたいていは小説そのものとは似ても似つかない。が、ともかく一度は終わってしまう)。『ブルースカイ』を読みながらそのあまりの読みやすさを思い、つまりこれは事実をすでに起こったものとして穏当になぞっているだけのような、そして実際に語り口は各章の主観人物が頭の中の誰かに追想しながら語りかけるという形式になっているのだからたゆみも衝突もなく、要所要所で起こるイベントもサクサクと乗り越えていけてしまう。観念小説のようでとっかかりがなく細部が動き出すようなリアリティがどこにもない。『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』も似たようなものだったと思うのだけど、こちらは同様の追想形式で知らぬうちについていた傷跡を丁寧になぞっていくかのように衝撃的(でおそらくはあるはずの)物語を淡々と進める簡素で寒々しくどこか様式的な文章の運びに慣れてしまわぬ間に小説が終わってしまった。どちらも作品自身の長さ、短さによった構成の妙はある。しかしまあ『ブルースカイ』の第一部を読んでいるときは途中から『ぱにぽにだっしゅ!』が始終ちらつき(新種のウィルスに冒されたのかも)、第三部を読んでいるときは大道珠貴が読みたくてたまらなかったのだけどなんとか読み終わってしまえばそれはそれですっきりとしてしまった。遮断され、手放され、解消されたのだ。ところで地の文に「舟をこぐ」という言葉があらわれたときにはのけぞった。おまけに十七世紀ドイツの少女が語り手なんだからもう……こういう細かなうかつさがいちいち興を削いだことは確かだ。この作者への興味はまだ絶えてはいないけど(次回予告:ANIMAL COLLECTIVEの素晴らしすぎる新譜といっしょにHOMOSEXUALSのリイシューを聴いて部屋の片隅に祝祭空間をでっちあげようぜキャンペーンと"NOTRE MUSIQUE"を目を閉じて観てみようキャンペーンについての希望的観測と『ゴダールのマリア』に異様なまでに執着していた中学時代に訣別するためのレッスン。『アワーミュージック』って邦題は何とかならなかったの、なんかポルノグラフィティみたいじゃない……。とりあえず『Fate/hollow ataraxia』にいまのところもひとつ乗れてないので明日もそうならば書いてみてこの弾みを毎日更新への小さな一歩とする)。