豊田道倫『東京の恋人』をまた聴く。もう今日だけで三回目だ。いや四回目だった。東京でおぼえているのは複雑に入り組んだ歩道橋をできるだけ遠くに視点をあわせながら何度も何度ものぼりおりしたことであり、やたら大きく様々な人がごった返しているのに薄暗い印象のある駅であり、大通りを少し外れて架橋をくぐればすぐに見つけることのできた名も知らぬ川の数々であり、そのときの天気はいつも曇りでちょっと肌寒かった(が、実際に行ったのは夏だったので半袖のシャツから腕が無造作に突き出ていて、だからこそ肌寒く両腕を抱きかかえるように縮こまりながら川の側を歩いていたのだけど実際には夏だったのでそんなはずはないのだった)。このアルバムにもそのものずばり「RIVER」という歌がある。すれるようにエコーを残す手拍子。All together now.《橋の上で眠る犬のテレパシー》……いっしょに歌ってしまうし二回聴けばだいたいの曲はおぼえられるので普段からついつい口ずさんでしまっている。こんなことで豊田氏の円熟を感じてしまう。過去の曲も次々と頭に浮かんでくる。「チョコパ」「Electric kiss」「家族旅行」「中学生」「奇跡の夜遊び」……挙げればきりがないのだけどそのどれもが豊田氏の血であり肉であると感じることができる。血を見せ、肉を見せてきたのだ。その見せ方こそが豊田道倫であり、弾き語りで私的で赤裸々なことを歌っているように見せながらもそのはしからどろどろと言葉が融け出し流れ固まり破裂していた。いつでも豊田道倫はまず生活者であり、また生活者としての豊田道倫だった。彼は安易に音楽や歌詞に血を通わせ肉を与えることはしなかった。くぐもった音、鼻詰まりの声、しかし一二年前くらいの粘っこさは薄れ、鋭く、クリアで、音構成に凝っていながらもシンプルこのうえないメロディを物怖じせずつま弾き……「ラヴリー!!」とおっさん相手に叫ばずにはいられない。なんだこの愛しさは。なんだこの優しさは。なんだこの怒りは。なんだこのさびしさは。なんだこの違和感は。なんだこの安寧は。そして最後の最後に川本真琴の声が現れ天国へといざなわれる。根拠なんて必要ない、根拠も無根拠も丸ごと肯定するしかないじゃないか。


  Keyのゲーム『智代アフター 〜It's a Wonderful Life〜』を読み、まだすがすがしい気分が身体の片隅に残っている。『最果てのイマ』とともに今年もっとも際立った印象を残した作品のひとつなのでこれもまた年末作業の際に感想の残骸を形にできたらいいと思う。肯定の物語であり、麻枝氏の妄執を感じた。(いくらそう見えたとしても)少なくとも彼は死やそれにまつわる悲劇を主題や結果としたことはない、それは過程であり、否応なく起こり、しばしば読み手を陰鬱とさせもするがしかしそれは単にそういう物語であり、それがすべてで、起こってしまったのだから仕方がない。いかなる肯定の形がありうるのか、ということ。『CLANNAD』が膨大な分量のわりにあまりに多くのものを抱え込みすぎたため消化不良気味となってしまった一部分が明瞭にかつ過不足のない形で呈示されたのだと思った。二作品の間にアニメ版『AIR』を置けば不思議としっくりくる……。(しかしそれでよりいっそう『智代アフター』の簡素であっさりとした印象、また抑えすぎとも思える筆致の巧みさが際立つ。たしかに長い前編が終わりようやく本編に入ったときには「あまりの仕打ち」にのけぞったけど。いや、そのあとも畳み掛けるようにしてやられるわけで、しかしここまでやってくれれば呆れることも忘れてしまう。『ヒビキのマホウ』も見届けたいものです)