寝る前に限って次々とアイデアの素の素が湧くがもはや起きてそれを形にする気も起きない、かつてずいぶんほんの昔の此間に一度だけ枕元にメモでも置いてみようかと検討してみたのだがとたんに寒気が走り一度も書き込まれなかった前年の手帳もろとも引き裂いた、そもそも起きようと布団から肩を出し片肘を軸に上半身を起こして電灯の紐を手にすべく暗闇をまさぐっている時点ですでにコンディションが変わっているしコンディションが変わるということは思考様態もとうぜん変わってしまったあとであんなにとめどなく湧き結合と分裂を重ねところどころ散逸しながら展開してはばらけていった魅力的なアイデアの素の素はすっかり冷え込み触れさせてくれぬどころか触れ方さえも思い出せないほどだった。だからおとなしく布団のひだに鼻を埋める。徐々に身体の中の水位が下がり、言葉が飛び交い内壁を浅くえぐりながらひっきりなしにかすりぶつかり掠めあう。書くことへと向かう意識は身体を抑圧し回路を遮断させ、エネルギーの流れを方向付けもするけどあらかじめ与えられた言葉の段差にすぎぬものを「不可避の過程」と信じ込ませ書く必要のないものを無理やり書かしめもしたものだった。ああ……と思っているとSIMON FINNとかSound Horizonとか聴いている(カラオケのDAMSound Horizonが多量に配信されていると聞いて他人の迷惑など顧みず居ても立ってもいられなくなっている。歌うこと、口ずさむことを意識して『Elysion』を聴くとまたちがった構成の響きが立ち現れてくる。物語、またその明示や暗示を読み解くことには関心が薄く、気恥ずかしくなるような節まわしや陳腐なフレーズ、また寸断され弛緩されるリズムが声と音で塗り固められていくその様相を近づいたり遠ざかったりしながら眺めるのが結果として性分に合っていた。その限りにおいて歌詞を読みながら物語を刻んでいく過程は一様に刺激的でありまた一様に退屈でもあるのだがだからといって物語が言葉として音から自立して残るわけではなく、その瞬間その瞬間の音の思想として連続し絶えず作品の像を更新していく。物語とは忘却の装置なのだが)。音楽を聴いているとゲームを立ち上げることができないし(『ロケットの夏』せっかく買ったのに忘れていた……)、映画も然りで、結局は手許の本を眺めることになる。たとえば武田泰淳の『滅亡について』を読んだりして、こりゃ『最果てのイマ』だ、と思った(ロミオ氏が直接影響を受けたわけではないだろうが。戦争編を読み飛ばしたひとは必読。本当)。八月後半から九月をまるまる使ってちびりちびりと身体中に田中ロミオのテクストを染み込ませてしまったので十月以降ロミオ分の絶対的な不足が健康に支障を与えはじめている。『ユメミルクスリ』のスタッフコメントを週に一度はのぞきに出かけ更新がなければ過去のコメントを何度も読みいまだ必要以上の喜びをもって享受してしまうくらいだ。そういうわけで来年は『はるはろ』→『霊長流離オクルトゥム』→『リトルバスターズ』の夢のコンボが実現するよう祈って寝ます。むろん通奏低音として『キミキス』が鳴り響いていることは間違いない。