「多様性」という語彙を不用意に使いすぎたろうか、とふと気になった。最近ではGreat Adventureの新譜とリヒター展について言及する際に用いたように思うがそれはどちらかといえば「一様性」に裏打ちされたものその発露の仕方のひとつの様態というほどの意味で、リヒターに関しては展覧会に足を運んだことでむしろ時間がたつにつれ物として大きくまた鑑賞者を巻き込むような物でありながらあまりに手触りというものが希薄でそのあいだをアトラクションのように動きまわるほかなく結局はその運動が筋肉に及ぼす楽しさくらいしか残るものがない作品そのものの表層的な多様さには関心が薄くなってしまった(それが芸術であれB級アートであれ「残るもの」などという無駄に秘教的でこそこそとした言いまわしを使うことはない。つまり一度見ればじゅうぶんだと思えたし、たとえばデュシャン展において他のデュシャン以降の作品群の中でも(例の「大ガラス」とともに)際だった印象を残した「エマ(階段の上の裸体)」はリヒター展においては多様性の中のひとつのパターンとしてとしてあまりに作品の依って立つ基盤(の希薄さ(を否定的に組織する一様性))が透けて見えてしまい拭いきれぬ安っぽさがインパクトを欠いたまま視覚の全体を覆い尽くしてしまった。そのときの感覚に素直に書くならば見えすぎてしまうこと、近くに寄って全体と部分を連続したものとして見てしまうことがむしろ作品の印象を損ねてしまった、そのこと、そう感じてしまったことにいささか拍子抜けしたという感じなのだけど、自分で書いていて本当に嘘くさいというかリアリティを欠いているように思われて辟易してしまう(たとえばリヒターは写真を元に絵を描いて発表したあと再びその絵を写真にとって発表しなおしたりする……というかそれこそが「エマ」なのだけど)。純度の高い工業製品のようでありながら信用ならなさによって鑑賞者とつながり、偽ものの感興を植えつけてあっさりと剥離していくような……そういう心ないもの、愛せなければ単に通りすぎればよい、とリヒターはどこかで言っているのかどうか)。とはいえ作品集を引っ張り出してアブストラクト・ペインティングの立ち上がりつつある筆跡やその毛羽立ちを指でなぞるのは興奮するしやはりそればかりで無作為に構成された迷路とか企画してくれれば国内外問わずぜひ足を運びたいとは思うのだけど。そしてその気もないのにうだうだと的はずれ(かどうかももはやわからないよう)な文を書いているうちに薄れていた関心が少しではあるが立ち戻りつつあった。今年は願望を込めつつThomas Bernhard年間にしようと思っているのでその関連でも……(そのものずばり『リヒター、グールド、ベルンハルト』という本もありますので。こっち読むかはわかりませんが)。


  この機会に(おおよそ)2005年(あたりに出た)小説(本)10選を思い出せる限り羅列を試みてみる。ベルンハルト『ふちなし帽』、スタニスワフ・レム『高い城・文学エッセイ』、多和田葉子『旅をする裸の目』、大江健三郎『さようなら、私の本よ!』、金原ひとみ『AMEBIC』……とここまで書いてやはりそこはかとなく嘘くさい、というかよもや昨年どんな本が出たのか思い出せない、文庫とくに翻訳ものとなるともう手に取った瞬間から何がなにやらさっぱりだし、そもそもどこまで読めば「読んだ」と判定してよいのか基準が曖昧だ、本当は曖昧じゃないのかも知れないがそれならなおのことお手上げだ、思い出せないものをそのとき思い出せなかったという事実のみを根拠に思い出したものより価値がないと判断するのもどうかと思うがやはり思い出せないのはいささか寂しいことではあるし、ベスト10的思考に向いていないという事実をあらためてしかもとびきり惨めったらしい方法で確認しただけというのも情けないが……漫画に関してならとりあえず昨年は最後の最後で『委員長お手をどうぞ』の2巻が出たことによって山名沢湖年間であったし今年も引きつづきその予定であるとあっさり結論づけてもよいのだけど(一昨年末に出た『白のふわふわ』を構成するすべてがとにかく好きで愛らしく、これをこそ永らく待ち望んでいたのだとしか言えないし言いたくない。また『スミレステッチ』にも表紙を含め本としての愛着を深く感じるし腰くだけになってそのまま蕩けてしまいそうになる表題作をシリーズとして書き継いでほしいと思う。ただのファンじゃないか。ぜんぜん構わないけど)。