《ただ子どもの本だけを読むこと、
ただ子どもの思いだけを愛おしむこと、
大きなことはすっかり遠くへ吹き散らすこと、
この深い悲しみのなかから蹶ち上がること。

ぼくは生あることに死ぬほど疲れてしまった、
生からうけとるものはなにもない、
けれども貧しいこの地上を愛している
ほかの世は見たことがないから》


  わざわざ馬鹿のふりなどしなくていいのに、そんなことしなくてもはじめから馬鹿なのだから、はじめから終わりまで目撃されていたしその目撃の過程を全体と呼ぶなら、まさに馬鹿にはじまり馬鹿に終わるあなたそのものはそれゆえに誰に見られることなくひっそりと山の中腹で朽ちてゆく醜く巨大なひきがえるという名の「永遠」なのだから。手に収まり、ときに手からはみ出て、中身は認識される前から重量であり、運動はその重量の右から左あるいは左から右への推移でしかなく、開かれ閉じられるごとにわずかな風が舞い、のぞき込めばそこに影が落ち、またそれ自身も影のなかに立つ、そういうすでにあったものであった、すなわち物質だった、だからその全体が図々しくも慎ましやかにそっと差し出され、また然るべき恭しさでもって尊大に受け取られた。信じがたいことだがそういうことが堂々とまかり通っていた時期があったのだ、本当だ、そしてそんなこと知らぬ存ぜぬとばかりに馬鹿のふりをつづけるものたちのその振る舞いだけが言語として通じる、通じてしまっているからかろうじて言語だと気づいたにすぎないのだが、そういう知的空間がいまだそこかしこにあって、そう聞いたんだけど、調べてはないけど、いくつか見たことはあるしいましがた見たばかりでもあるのでおおよその想像はつく。豊田道倫はかつて「驚かせることにしか興味がない」と言った。「ほんま、それだけやから」とも言ったような気がする。その限りにおいて彼は詩人だったのだ。驚かせるといっても当然びっくり箱を使ったりするわけではない、だって誰だってびっくり箱の中身くらいは知っているのだ。じゃあ誰も中身の知らないびっくり箱を作ればいいじゃないか?


  驚かせるということは知ることである。聞いてないのに「無知の知」とか言いたがるひとがいて、意味がわからないのでたずねてみると決まって胸を張ってこう言うのだ誰の受け売りだか知らないけど「わたしは自分が無知だということを知っている!」……だから?としかコメントしようがないのだが、しかしどうして「なにも知らない」では駄目なのか。フレーズを口にしないと満足しないのか。ただ「知る」のではなくそこには必ず対象があるはずで、それが必ずしも名指される必要はないけどとりあえずひとは何かを知る。だがこの場合は対象とのあいだに生じるその作用と反作用は問題にされずただひたすら「知る」という言葉が、その係わり方の様式が無傷で保護されているだけで、まるでそれが目的であるかのようにフレーズのみが振りかざされる。知るという作用が知られるところの対象から影響を蒙らないはずがないではないか。誰も中身の知らないびっくり箱を作る。誰も中身を知らないのだから実は本当にそれで驚かせられるのかは誰にもわからない。で、とりあえず見せた。驚いた!本当に驚かせることができたのだ。それがびっくり箱である限り誰も中身の知らないものなんてそうそう作れるわけがない。しかしそのひとはたしかに驚いた。そしてその姿を見て作った本人もまた驚いたのだ、相手の驚く顔を想像しては期待に胸を弾ませながらひたすらびっくり箱を作るその過程全体を知っていたわけだしだからこそ出来上がったものに対して自分がことさら驚くということもなく、だから実際にそれを見せ驚く姿を目の当たりにするまではそれが驚かせうるものであるかは判断ができなかった、そして判断はできなかったもののそれが確かに驚かせうるものであることを深く確信はしていて、だから見せたわけだが、それが驚かせうるものであることとそれによって実際に驚かせることには断絶があり、その断絶は驚かせることによって解消されるというか断絶ではなくなるというか断絶であることに意味がなくなるのだけどもちろん断絶一般などというものはなく驚かせるという一回的で具体的な働きかけにおいて事後的に立ち現れてくるものでしかない。ところでその断絶はまた知ることと知らないことのあいだにある断絶でもある。知ることは例外なく知らないことの上に立つ。立つ、というのはつまり「知る」ことは「知らないこと」からの全干渉のただ中にあり、そこから逃れることは決してできないということだ。知らないことは対象を持たない、だって知らないのだから。持っているように見えたとしてもそれは言葉のうえだけのことだ。煎じ詰めれば知らないことに留まったまま驚かせること(=知ること)にのみ関心を注ぐ狂人を詩人と呼びたい、というまあそれだけの話。