DOOPEESの2ndアルバムが発売されるらしいと聞いたが……本当なのか?今度こそ期待していいのだろうか?"coming soon!"で何年も待たされるということはない?かつては絶妙なタイミングでシャンプーのCMで使用されたりなんかして勝手に期待を煽られたりしたものだったけど。いや、夜中なのにちょっと興奮してしまったではないですか。このうえなく愛らしいものでありながらむやみに触らせない浸らせない、架空の少女をfeaturingした電子版『Pet Sounds』のような体裁をとりつつ人工化の極致へと至らんとするその徹底性と偏執性、それに比した温度の低さによりまるで完成品から故意にネジが抜かれたかのような痕跡がときおり顔をのぞかせそっと頬をなでる。どうやらヤン富田の新譜に収録されたあと夏頃に2nd、という運びらしいです。震えて待つ。


  あとにせんねんもんだいのフルアルバムも出る。佐々木敦のレーベルから。グッジョブ。ところで佐々木氏は先日「BS週刊ブックレビュー」に出演したそうで、残念ながら設備がないので見ることはできなかったのだがそのときセレクトしたのが『絵画の準備を!』と『アストロノーツ』と『デス博士の島その他の物語』だと知って、というか放送前に知ってはいたのだけどともかくそのときちょっとだけ嫌な感じがした。嫌な感じというかこの三冊を選んでしまう佐々木氏の気持ちは十分すぎるほどわかるし共感さえするのだけどそのぶん「ずるいなあ」とも思ったし「臆面もなくいいとこどりだなあ」と辟易とさえしたのだった。彼の文学評論(語り)には以前からそういう印象を抱かされるところがあって、いつ頃からかなあとこの機会にぼんやりと遡ってみると『文藝』別冊か何かで恩田陸の『三月は深き紅の淵を』と穂積(久々にこの間違いをやってしまった。死にたい)積木鏡介『歪んだ創世記』を取り上げながらフラン・オブライエンに言及したりするあたりがどうにも腑に落ちすぎて鼻についてしまったのをおぼえていることを思い出した(『三月は』は病院で夕方まで働き大阪環状線の汚い電車に揺られて戻ってきたあと駅の近所の公園の滑り台やブランコのうえで夏の陽にページを灼かれながら読んだのだけど、書く作品と書かれる作品、書いた作品と書かれた作品のあまりの落差に白けながらもなぜだか身につまされる思いがした。いや、なんか勘違いした雑誌編集者のようなメンタリティがところどころに露呈されていてそれがどうにも恥ずかしく……彼女の資質は不完全なもの、放り投げたようなオチの中でこそ輝くのではないかと『麦の海に沈む果実』に落胆しつつ思ったのはたぶんその2、3年後であり予感はその2、3年前に読んだ『球形の季節』でじゅぶんに濃厚だった(初期も初期ですがこの作品がいちばんよかったかなあといまだに思う))。最近もまた書評で何の前提もなく「ゲーム/アニメ的想像力」*1。という言葉が無防備に用いられ、しかもそれとの取り組み方が現在の小説や物語が直面している最大の問題なのだ、というようなことをさも常識であるかのようにさらりと書いていたのだけど……これではまるで「現在」という抽象的な時空間が日本のどこかに存在しているかのようではないですか。サント・ブーヴと対談させてみたかったですよホント。

*1:東浩紀とか大塚英志を参照してのことだとは思う、しかし大意というかニュアンスを汲んで通り過ぎることくらいはできてもひとたび立ち止まれば途端に虚ろになる……というか本当にこれでピンときますか?ひょっとしてこれは「マンガ/ラノベ的想像力」とも言い換え可能だったりするの?かつて東浩紀が著書で提示した「データベース」というあまり定義の練られていない様子の語について誰かが「世界観とどう違うんだ」と突っ込んでいるのを読んだことがあるけど、この手の人たち、というかこの手の人たちの書き方って結局は差異にしか目が向いていないし現金さだけが妙に際立つ。夏目房之介なんかが「いま漫画が面白い」などと図々しくも書いてしまうような心性(しかも『のだめ』とか『デスノート』とかが挙げられた文脈において、だったりする。むろんそれが一條裕子『すてきな奥さん』だったってさして事情は変わらない。いや、「面白い漫画」ではありますけど)と相似通ったものを感じる。そういえば高橋源一郎はいま小説が面白いと言っていたしどうやら日本映画もいま面白いらしい。しかし日本映画に関してはひたすら暗澹とするしかない日本アカデミー賞のようなものが堂々と存在しちゃってて、どう贔屓目に見ても懸命に日本映画のつまらなさをアピールしているようにしか見えないのが気の毒になってくるからまあ……とはいえ……ねえ。ところで『ALWAYS 三丁目の夕日』ってなにあれ?