中原昌也KKKベストセラー』が単行本化されるなんて思わなかった。この小説を最後まで読めば余すところなく理解できるように朝日新聞社とは件の島雅彦騒動にて絶縁したのだろうからこれは出版を利用した無方向的な壮大でみみっちい嫌がらせなのだと思う。表紙の折り返しに切り取り線がついていたので何事かと思ってかわいらしいベビー服にくっついたよだれかけみたいな表紙をよく見てみたら上部にアスタリスクのような肛門のようなお婆ちゃんの口元のような花弁マーク「***」が彫り込んであって、まあぜんぜん知らなかったのですが切れたら願いが叶うとか世界が滅びるとか言われているホワイトバンドなるアクセサリーがつまりはようやく我が家にもやってきたのだというこの喜ばしき案配、しかも真面目でゆるく感動的な30分1トラックのノイズCD付きで、本編でも最低2回は爆笑できるという陰惨でお得きわまりない代物なので300円で薄汚いひもを買うよりはエコロジー的にも地球に優しい。『キッズの未来派わんぱく宣言』もよかったのだからこの音楽が「主」で文章が「従」のしかるべきといえばしかるべきの抱き合わせ商法をもっと徹底化させてくれたらよい。それで本編なのだけど書いてあることだけが書いてあることで書いていないことは書いていないのでいちいち読み取る必要などないしどこぞの酔狂さえそんな気など到底起こしようもないような無駄な創意や工夫の欠片もない、もう本当にそういう余計なものが一切ないのが凄味で、やはり彼の小説はそれ自身がひとつのキャラクターであるような「キャラクター小説」であり、文筆への呪詛や祖述される貧乏描写や慨嘆が事実だろうが誇張だろうが捏造だろうがどうでもいいのだ、小説そのものは一つのキャラクターでありそれは書かれたことのみによって構成されるのだから。『KKKベストセラー』に実際に引用されている課長島雅彦の文章のごとく「芸になっている」などと安全圏から穏当に評価してもどうしようもない(実際のところそれが芸ならばどうしようもない芸にしかなっていないのだし巷にいくらでも溢れるその手の芸なんて金を払えば済む程度のものだ)、キャラクターとしての小説をメディアで振る舞う中原昌也その人と混同しているにすぎず、それはラノベのひとやエロゲのひとがひとつ覚えのごとく口にする「感情移入」と大差がないのだけどおそらく島田氏はとぼけたふりをしているだけだし高橋源一郎なんかも同様だろう(なぜなら彼もまた小説のキャラクター性について考えていた(時期もあった(ということが書かれたものから推察できる(というのは何かを読むことで「かつて彼にそういう時期があった」という過去の事実をうかがうことができるということではなくある時期に書かれた複数の文章を読んで進行する作者の関心をうかがうことができた))のだから)。キャラクター相手にはもう受け入れるか無視するかしかない。くだらないと思えば単に無視すればいいのだしそうでないのならすべて受け入れよう。だけど素直に本を買うのはちょっと馬鹿馬鹿しいのでCDをつけてくれれば抵抗がないのだが、とそういう話。ところで現在の中原昌也中原昌也剽窃、あるいは模倣でしかないのか、という点について。これを小慣れてきたので手を抜いていると受け取るかテクストがより巧妙に複雑化の一途を辿っていると取るかは個人の好きずきだろうがひとつだけ言えるのはやはり中原昌也の真似は中原昌也がいちばんうまいということで、むしろそれ以外の「真似」はほとんどが目も当てられない、友人と『三月のライオン』ごっこをしながら市中の公園を線で結んでいたときについでに読まされた中原風と称する数々のショートショート、webの食い散らかし、現代詩サイトの投稿等々はすべてがことごとくひとつ残らずどうしようもないうえに誰の迷惑にもならない薄汚いだけの行儀のいい落書きでしかなった。「こんな幼稚な作文おれでもできるぜ」「この紋切り型が中原風だぜ」と言わんばかりの得意顔でそれを書いたり他人に紹介している人間たち全員の死を中原昌也とは無関係にねがったものだしそいつらの大半は何の因果か今年揃って鬼籍に。


 疑わしければじっとそいつの顔を見つめつづけてやればいい。やがて顔を真っ赤にしながら怒り出すだろう、それを待つ。「な、なによ、あ……あたしだって恥ずかしいのを覚悟で仕方なくやってるんだからねッ!!バ、バカじゃないの、はっきりとした確信なんてあるわけないじゃない!で、デモソウスルシカナインダカラ……」。問われもしないのに、また顔を赤らめることさえせずに「文章というのは間違いうるもので……」とか「わたしの書くことを信用しないでください」などと一度や二度ちょろっと言葉にしたりサイトの隅に書いただけで得られる信用や真摯さなどドブに投げ打ってしまえ。連中の間の外し方はちょっとした才能さえ感じられるほどだし、それこそが知性と呼ばれるのがこの世の中だ。単に無視すればよい。だから今日もまたじっと顔を見つめることだけに徹しよう。そしてその顔を紅潮させながらも真っ正面から発される憤懣と異議申し立てに喜ぼう。稀なのかも知れないが、頑なに思いこんでいるほど稀でもないはずだ。