OLとして言う

 無数の羽根と肥料と藁屑が舞い詰められたそのベンチャー系ヒツジ小屋の奥はほとんど用をなしていないもののいちおうは倉庫になっていて駐車場や小屋主家族のすむ住宅部へとつながっているのだけどそこに半ば追いやられるような格好で設置されている男女共用の小さなトイレにはおそらく小屋主が定期的に通っているのであろう経営セミナーの講師を務めるひとまず社会の成功者とその場にまたその場を形成する言説に目され知られ登録されているのであろう先輩小屋主のありがたい訓示が毛筆体で印刷された日めくりカレンダーがちょうど自然な、つまり人体として無理のない姿勢で用を足すときに目線が据えられるであろう予測点を考慮したことが忍ばれる位置にかかっていて、そこに「ど真剣に生きる」とか書いてあったりして面食らう羊も少しはいることだろう。それで日めくりだから反則なのだけどこっそり先の日や前の日をめくってみたりして、そこには実際に書かれている語は異なれど多かれ少なかれ似たような印象を真っ先に抱かせる、同じ方向を向きまた向かせることを旨とした明確だが具体的ではない文句が連なっていて、脇にはさも当然といった面持ちで読んでいるものを諭し鼓舞するような解説というか但し書きが添えてあるのだと思う。復唱すべきは主文、そして小屋主は日々その毛に覆われた顔面を様々な華やかならぬ色にくすませながらフレーズを反芻し自らの生き方を省みそのたびごとに決意を新たにしては床につくのだ。ところで「ど真剣に生きる」ってどういう意味なのだろう。やはり羊が小屋主に「今日もど真剣に手を抜きます」と言ったら叱られ鞭を振るわれるのだろうか。それならそれで黙って手を抜くまで。他人から得たくないものは信頼だ。つぶてにして投げつけるほどの悪意や嫌悪の観念を抱いているわけでは決してないしまたそれは肯定的な心の働きではなく単に否定的な作用の先取りでしかありえないのだが必要以上に友好の情を受け取られても困るので外面は引き締めておかねばならない。常に淡々と最低限の労働で最低ライン水際の結果を出さなくてはならないし、そのためには感性や注意力だって鈍いに越したことはない。だが気がついてしまったらもうしょうがないので覚悟を決めて全力で処理にあたる。むろん処理自体にはたいした手間などかからない、ただそれに気がつかない家畜たちの瞼が重すぎるか真面目にど真剣しちゃっているかのいずれかにすぎないのであって、全力で傾注すべきなのはいかにして誰に悟られることもなく事を遂行するかという一点のみで、判断は瞬間にかかっているしほぼ同時にその結果も問われることになる。信じてほしくはないし頼られたくもない。好意などもってのほかだ。放っておけと恫喝したい。羊だからそんなことはしないが。ど真剣に不真面目に生きる。これだって立派に言葉として成り立つではないか。しかしそれが何よりも困難だということをやっぱり羊は知っているのだ。


 ジム・トンプソン『ポップ1280』が文庫化されていたので連載がつづいていることも忘れるほど待望していた金井美恵子『目白雑録2』とレムの文庫(頼まれてもいないのに文章を書いてわざわざその末尾に「冥福を祈ります」などと書き添える連中の気が知れない。そんなもの勝手に祈るな迷惑だ。レムいまだに死んだ気がしない。ベケットとか小説を読むたび、嘘でしょ?といまだに思う。もちろん嘘だ。祈ラーどものでっち上げなのだ。そんな連中さっさとシンドラー社のリストに加わってサスペリアっちまえ)といっしょに買ってさっそく電車の中から読みはじめ商店街を歩きながら読み家に戻ってベッドに腰掛けたころには本日中に読み終わってしまいそうな予感がしていたのだがちょっと中断してweb小説「のび太のマトリックス」を読んでいたら離れられなくなり読み終わるころにはすでに空が白みはじめていた。これはよいものです(一部『最果てのイマ』戦争編を彷彿とさせる……というのはさすがに冗談だけどまったく連想させないというわけでもない。ところで『イマ』は工場編と戦争編の二編に分けて発売してもよかったしそれに物語上の不都合があるならばその不都合の根を断ち切ってくれてもよかったと本気で思っている。そしたら初期情報のとおり田中ロミオが『なみだ橋をわたって』にもシナリオを書けたかも知れないじゃないか。制作凍結が解除され作品の外観を俯瞰できるようになったいまだからこそ余計に思ってしまう。支離滅裂だろうか?確実に言えるのはもしそうなっていたら戦争編は最低でも二本以上は買っていたということ。相変わらず田中氏のことになると冷静さを欠いてしまってお恥ずかしい限りだが)。思わずデスノコラを引っ張り出してきて笑い転げてしまいましたよ、もしものび太ドラえもんの出したDEATH NOTEを持ったら……という仮定のやつ。SOUND HORIZONのライヴに備えてちゃんと寝ておきたかったのに。