わずかであれ恥辱を禁じ得ないが日々の生活スケジュールはおおはば固定的なのでたいていは一日に何十分か宵闇のなか不意の障害さえ生じなければ完全に光を閉ざしても辿れそうなくらいじゅうぶんに見知ったルートをぼんやりと歩む時間を得るのだけど週に一度くらいは寄り道をして必ずしもその意図はないのものの距離や簡便性から結果ふだんとまったく正反対の方角より自宅へと向かうのだが実はこちらのルートの方が気に入っていて、とはいえそれはただの物珍しさというか相対的な慣れなさという比較の問題、あるいはいい具合に掠れつつある記憶を適度に刺激してくれる反復の心地よさに依るのかも知れないけど駅が大きな公園に面していてガーゴイルの石像を通り抜けると遠くに望む交差点の信号やいつまでも終わる気配を見せない道路工事現場の灯りを残してほぼ真っ暗闇のなかを進まなくてはならず、公衆便所や公民館(というにはあまりに……なんというか、あらためて暗がりで面すると正岡子規庵もかくやと思わせるほどのつつましやかな公共施設)やテニスコート自動販売機や池やそれを彩る花壇を横切り、公園の奥のほうや手前でちらつく窪んだ光線や影の綾を、また調律をしながら祈るように歌うギター青年の声などを感覚の端っこにかすめながらときおりすれ違ったり追い抜いたり追い越されたりする自転車や人の背中にいちいち新鮮な感懐を抱いたりして胸の内で指折り数え上げてみたりもするのだけど、いつものルートもそれはそれで嫌いではなく点々と配された街灯から放たれる白い光がマンションや団地の形貌を日昼より安っぽい形で浮かび上がらせ、辻を渡るたびに人の姿や気配が徐々に払われ、距離感が歪み、まるで奈須きのこの小説『空の境界』の一場景のような人工的な物々しさが迫り上がるのも待たず瞬時に提示されるのだった(ゴメン、じつは未読)。

 例のごとくたどりつきそうにないんで端折ります。小島信夫『私の作家遍歴Ⅲ 奴隷の寓話』を買った。復刊の予定があるらしいがそんなものあてにするのはどうかと思うし、むろんあてにはしているけど、だからといってみすみすいま目の前にあるものを看過してしまうのは忍びないしそんなこと考えるまでもなくすでに心は決まっているのだ。幸い安価い。巷の相場は知らないが定価を超えていないのだからじゅうぶんすぎるだろう。中の状態もきれいだ。さっそく読んでみる。言葉が蔦のようにずるずると絡まりながらひたすら先へと延びている。たしかなのはつかむ手触りのみ、元々どこから生えていたのかも覚束ない。小説であるかのように次々と言葉を取り巻く風景が変わり、段差が生じたり均されたりする。索引にてすべて出典が明らかにされている夥しい数の引用は立ち止まらせるためにではなく一種の推進力としてある。読むスピードが追いつかない。何にか。ページをめくる手に……ではなく、読むスピードそれ自身に、だ。裂ける。ホモサケル。ところで『私の作家遍歴』もいいがやはり『美濃』の復刊が最優先事項なのではないかと思う。絶望的に売れない気もするが……。保坂和志界隈を継続的にチェックしているとついつい忘れがちになってしまうのだが小島信夫は決して本が売れる作家ではないはずなのだ。ちがう?てっきりみんな『寓話』も『残光』も競って買っているものだとばかり思っていたけどまったくそんなことはない。そうでしょ?錯覚なのだ。絶望した!(別にしない)