ある呪いについて

 たとえば後藤明生の『挟み撃ち』がある。どういう小説か。こうはじまる。

《ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは、お茶の水橋の上に立っていた。夕方だった。たぶん六時ちょっと前だろう》

 すでに小説ははじまっている。当たり前の話だ。だってこの文は小説が収められている文庫本を実際に開いて引用したのだし、小説は小説の内にしかなく、小説の外に小説はないからだ。たとえば雑文風の小説とか小説風のエッセイとかがあって、それは眼前の文章がそういう特徴を持つということであくまで外的な規定に基づいた判断や印象にすぎないのだけど、そういうものに出くわしたとき「いったいこれは小説なのかエッセイなのか……」という疑問が頭を掠める読者は少なくないだろうし中にはその疑問に暫定的であれ気休めであれとりあえずの決着をつけない限り一行たりとも平穏に読み進めることができないというひともいるかも知れない。しかしたいていはそれが小説か小説でないかはあらかじめ決められていることが多い。雑誌で偶然でくわしたのならともかく(呆れる話だがいまだに文芸誌には「その作品が連載や連作であることをはじめにはっきりと提示しない」意味不明の慣習がまかり通っているようだ。すが秀実筒井康隆など過去に文芸時評を担当したお歴々にも散々指摘されてきたことではないか。いや、単に不思議なだけなんだけど。読むひとは読むし、読まないひとは読まない。文芸誌なんてそういうものでしかない。ところでいま連作小説、と反芻してみて真っ先に思い浮かんだのが金井美恵子の「トゥワイス・トールド・テイルズ」で、その次が佐藤友哉の「赤色のモスコミュール」なのだけどいずれもまだ単行本にはなっていない。前者は『新潮』、後者は『ファウスト』創刊号に掲載だったけどこれってどういう扱いになっているのだろう。連作という文芸上のお約束がいまひとつ飲み込めていない。飲み込もうと考えたことがないからだ。佐藤友哉はたしかそのあとタイトルを見ただけで辟易する「灰色のダイエット・コカコーラ」とかいう作品を書いていたようにも思うがこの雑誌は創刊号を買ったきり以降はせいぜい竜騎士07インタビューを斜め読みして一生懸命自分のフィールドに引き入れようとする編集長の姿を確認したくらいでほとんど手にとっていないので色シリーズが現在もつづいているのか知る由もないしさすがに調べる気も起きない程度の出来だったというか少なくとも行動を促しうる感興などはほとんど与えられなかったに等しい(あ、「人生・相談」だけはいくつか読んだ)。舞城王太郎自身による「ドリル・ホール・イン・マイ・ブレイン」のイラスト(だけ)がよかったので本体は何となく捨てられなかったりするのだけど。まあ文芸誌というもの自体すべて読み切るということがないのでたまに何かの間違いで買ってしまえば最後いつまでも押し入れの肥やしになってしまう可能性が高い)、単行本や文庫本ならばどちらか知れないことの方が少ない。「さあ、小説を読むぞ」と手に取り、開き、読みはじめるだろう。そしてたいていは何事もなく冒頭を通過し読み進めふと気がつけば小説はすでにはじまっていたという案配。しかし『挟み撃ち』はちがう。すでに冒頭の一行目から小説ははじまっているということを意識せざるを得ない。あらかじめフィクションとして出来上がっているということではない。どう見たってそうではないだろう。むしろ不安定じゃないか。短く区切られた一文一文に意味がとれないところなどなかろうが、にもかかわらずそれが連続することで居ずまいが妙に落ち着きなく感じられ、それはひょっとしたら回想の語りであるからかも知れず、つまりこの冒頭部分に何らかの形で回想が入り込んでいるのは間違いなく、それはこの部分だけでもじゅうぶんに推察できることなのだけど、帰着点がわからないため、というのはここの部分だけではわからないということではなく回想する主体の存在というか位置を感じさせない書かれ方をしているということなのだけど……ともかくまさに冒頭で「とつぜん」小説がはじまりとして現前させられてしまい、弾かれるひとはここで弾かれてしまうかも知れないし騙し騙し進んでいれば途中で冒頭が文字どおりはじまりであったことを発見しなおす羽目になるかも知れないがむろんそれはそれで歓迎する。

 そのあとも同じような調子で小説はつづいていく(どうでもいいがこの作品で要約され引用されるゴーゴリはほとんどカフカだ)。そして語り手が自身の外套の行方を気にしはじめたあたりから、とはいえまだ文庫で10頁ほどなのだけど、小説は不穏さを帯びてくる。「いかにも小説の主人公らしい」という記述があったかと思えば「とつぜん」こちらに語りかけてくるのだ。《現にあなたの周辺にだって、そのような人間はいるはずである》とこういう具合に。そのような人間というのは《職業も年齢も家庭の事情も、毎月の収入もわからない》《素性のよくわからない》人間のことで、語り手は自分も少なからずそういう人間で、辻褄のあった小説の主人公には不向きかも知れない、と言っている。ところであなたというのは誰のことだろうか。こちらに語りかけてくる、とさっき書いたが、では「こちら」とはどちらなのか。読者だろうか。では読者というのはいまこの小説を読んでいるそのひとのことなのか。だがむしろこんな小説を読むひとこそが「そのような人間」として「あなた」の隣にいるのではないか。小説ではあなたは毎日すれ違うひとのうち何人の素性を知っているのか、何人に素性を知られているのか、だがそれは決して不都合なことではない……というふうにつづけられる。だがここで書かれているのは都会一般、都会に住む人間一般に押し広げられることではない、ということが小説を読んでいればわかるしそれがあの冒頭から小説をはじめるということの意味だ。ここではある呪いについて書かれている。その呪いにかかってしまったひとは「あなた」たる資格を失ってしまうのだ。名指された瞬間に、そして名指されることで隣に腰をおろしたりすれ違ったりするだけの「そのような人間」へと追いやられてしまう。それをひとまず書くことの呪いと考えるが、そう考える理由はいまのところまったく個人的な事情による。『このページを読む者に永遠の呪いあれ』という小説があったが、どうも読むと呪われるとでも思われているようなのだ。近ごろ当の本人の口からこの耳で聞いたばかりなので間違いない。その場に居合わせた二名も証言してくれるだろう。まるで霞を食って生きていると言わんばかりの仕打ちだ。これを呪いと言わずに何と言えばよいだろうか。書くことの呪いはむしろ書いていないときにこそより強固に機能する。あるいは書くことに荷担していないひとにさえも。言うまでもないが書くということは必ずしも筆記具やキーボードによって空白部に一定の文字列を刻み込むことではないし、ましてやそれが第三者に閲覧可能かどうかなど関係ない。