金沢報告つづき

 『シルクハットの大親分』を観られたことが最大の幸運だったと思う……いや最大の幸運はそれを鈴木則文監督といっしょの空間で観ることができたことだし、まるであらかじめ仕掛けられたかのような幾重もの偶然の折り重なりの末の奇跡とも言うべき中原昌也のゲスト参加もその数に入れるべきだろう。トークでは監督の記憶を触発しながら慎重を期して、しかしときに饒舌に言葉が言葉に誘われ奔出する様、そして実際に放たれたいくつかの忘れがたきよい言葉……またそれを引き出し、受け、継ぎ、返す柳下氏の隠し刀のごとき抑えられた、そして中原氏の溢れんばかりに溢れ出す愛に感動をおぼえた(そして質疑応答時にマイクを握った質問者たちの愛の希薄さがかえって際立った)。『エロ将軍と二十一人の愛妾』は何度観ても異なる味わいがあった。ナレーションに江戸城の物象的、あるいは象徴的大きさを語らせながらめまぐるしいカット割りと奇妙な構図選択でむしろその安っぽさ、矮小さもまたイメージとして並び強調されるオープニングから(しかし劇中では江戸城の美しい俯瞰構図なども挿入される。夕焼けの場面はすばらしかった。監督自身も夕陽を背にしたカット等に思い入れがあるようだ)度肝を抜かれた。話自体は『王子と乞食』のヴァリエーションで、田舎育ちの風呂屋の三助が権力の座につきひたすら夜の遊興に耽るうちに自己同一性が軋み空転しはじめ錯誤と誇大妄想の淵に陥りそこからマグマのごとく反権力が噴出して裏返り情欲と崇高さと卑俗のはざまで果て、最期にナレーションによってその事実が黒歴史として闇に葬られたことが告げられる(しかし大奥の愛妾たち、そして皇族出の正室の身体にのこされた庶民の遺伝子はしっかりと徳川家に根を張っているわけだ)。狂った偽将軍が「大奥の女を襲った者は無罪放免」という新令を発布し、囚人たちが我先にと大奥へと大挙する場面では不意に全身が打ち震えて泣いてしまった。そのあとは言わずもがな、中原氏も「映画にはこんなことができるのか」と驚嘆した狂乱の終局へと至る。肌色!ひたすら肌色!そして女たちの両輪が馳せる!正室杉本美樹は美しく、鼠小僧の池玲子は格好いい。しかし人数をしっかりと動員しているし、ちゃんとお金と時間をかけて撮っているんだなあとしみじみ感慨深い。東映映画というものがしっかりと機能していた証拠だろう。キャストもすごい。田中小実昌が「恍惚の人」(『文学賞殺人事件』で真価を存分に発揮したお得意の書名ギャグ!江戸時代なのに)こと先代将軍役として出てきてすぐに死亡するし、岡八郎由利徹は清の親善大使として登場、岡八郎は宦官の悲哀を語り、また「身分証明」である自らの干からびた逸物を犬に喰われたりして泣かせるし、由利徹は異邦人と偽将軍のまぐわいに同時通訳として立ち会い「イクぅ〜」と悶えながら職務を果たす……残念きわまりないことに三者ともすでに故人だ。偶然ではない。この映画にはすでに喪われ取り返しのつかなくなってしまったものが息づき蠢いているのだ。大奥が囚人たちの精の臭いで満たされるなか、血走った眼で菊の紋を切り刻みそのまま鼠小僧と交わって情死する偽将軍の縮こまった姿を、なおもぶれつづけるシルエットを生涯忘れることはないだろう。エロとギャグとナンセンスと暴力を煮染めた娯楽大作で権力と反権力を不可分の形で意図不明なくらいに徹底した混沌として現出せしめた監督の手腕とそれを可能ならしめた東映の幸福なる予定調和にいま一度賛嘆の意を表明したい。

 なおつづけます。