シネマトグラフ覚書―映画監督のノート
 かつて一票を投じたように記憶しているがブレッソン『シネマトグラフ覚書』が筑摩書房のフェアか何かで約二十年ぶりの増刷。相当にめでたい。賢明だが愚図な諸兄はたかだか二千円なのでなくならないうちに買っておくが吉かと思われます。本当に書籍って安いものは安い(同じくらいの値段で先日『ファルサロスの戦い』を買った。ちなみに『詩篇アマータイム』もたった二千円で松本圭二萩原朔太郎賞受賞の報が舞い込んだ翌日くらいに我が家に配達されてきた。こちらは新刊。まだ店頭在庫が残っている店があったとは!出不精の諸兄はひとまずweb上のあらゆる書店の底を攫う作業からはじめてみてはどうだろうか。きっかけは偶然とはいえ探しはじめて一分くらいで呆気なく見つけてしまった。先日確認してみたところその書店にはもう在庫はなかったけど。そういえば氏のサイトではすでに『アストロノート』の販売が終了しているようだけど『詩集工都』等とはちがい別段完売と記されてはいないからまだ在庫はあるのだろう。まさかあまりに注文が殺到したということは考えられないが、というのもこの詩集のロッテさんも裸足で逃げ出すほどのあまりの採算度外視ぶりは読んだ人間には明らかなのだが読んでいない人間はそうは思うまいし、とはいえいま偶然なぜか手近にあった川口晴美と渡辺玄英の詩集はごく一般的な、つまり書店でよく見かけるような体裁と密度ながら件の受賞作とはほんの二三百円の値段差しかないのだからやはり一般的な、つまり普通の、ちょっと大型の書店でよく見かけるような詩集の範疇から大きく逸脱するような価格ではないというわけだが当然それは書店の詩集コーナーに足を運びついつい詩誌や新刊を手に取っちゃうような読者にのみ通用する常識や良識であって「電波詩集」を読めばわかるように松本圭二の読者はそこから少し外れているようにも思うのだけどやはりそうでもなかったということなのかと早合点するのはまだ早い。かつて漫画家の井上三太は「まずは版型との戦いだ」と言い、B6版の棚に入ることに強くこだわった。松本氏の戦いはそれとは似て非なるものだ。あるいは非にて似たるものだ。その全貌が見えるのはもう少し先で、そのときにはすべてが取り返しのつかないことになっているわけだが)。内容は年代を大きく二つに区切った断片集、メモランダム。とりあえず時間をかけて読むこと、だらだらと、ではなく、時間を区切って、否応なしに、あまり集中せず、ところどころリズムを脱臼させながら、行きつ戻りつ、窓の外を見たり目を閉じたり(ところでいまtortoiseを聞いてるんだが"Benway"って西海岸風Gentle Giantって感じがするんだけどどうでしょうか)……忘れてはならないのはブレッソンの映画を観ることとブレッソンの本を読むことはまったく異なる体験だということ。当たり前かも知れないが、しかしゴダールブニュエルロメール黒沢清青山真治がそうである以上にブレッソンは同一視できない(という意味で「異なる」。それと同時に紛れもないブレッソンの映画が、その足跡が明確にテクストとして刻まれてもいるのだからややこしいことこの上ない。だからゆっくり、慎重に読めというのだ。混同するな、取り違えるな。それそのものなのに、ぜんぜん似ていないのだ)。そしていまブレッソンを読みながら思う、機先を制するように《シネマトグラフの真実は、演劇の真実でも小説の真実でも絵画の真実でもありえない》とすでに刻まれてはいるし、それは重々承知の上で……映画を観るように小説を読み、映画を撮るように小説を書くこと。トーキー映画が映画を再現劇へと導いたのならリアリズムが小説を再現劇へと導いたとも言える。もちろんリアリズムはとうにその役目を終えた。そして再現だけが残った。立ち尽くした。泣いた。笑った……。

 銀時計『おたく☆まっしぐら』はじめました。数時間程度しか触っていないが現在のところバグらしきものには出会わずほんの些細な違和感を通り過ぎただけ。ひたすらテクストと戯れていればよい。自己育成シミュレーションでありながら能力値(おたくスキル)を上げようとするたびに小エピソードが挿入される、それがあまりに断片的にすぎるので連続的に身を浸すと疲れるのだけど。榊原ゆい氏の声が面白くて聞き入ってしまう。が、なぜかパートヴォイス……というかパートノーヴォイス。どうやら一エピソード単位に二人以上のヒロイン(候補)が登場する場合、声が出るのはそのエピソードでメインとなる方のヒロイン(候補)(男一名含む)だけという仕様……になっているような気がする。そういう事態に何度か遭遇して、いまのところ例外はない。これからもそうかはわからないけど。テキスト履歴でも声を再生できなかったので環境に依存した症状ではなさそうだ。謎仕様?いまはまだそんな程度。先が楽しみだ。