ジョー・ダンテとシャマランには何が何でも映画を撮らせつづけよ!

蓮實  中上健次の『枯木灘』だってそうですよ。みんな、偶然に腹違いの妹と一緒になったりするはずないっていうわけでしょう。ところがそれを書いた後で中上は真剣になっちゃって、それをパロディのパロディというふうに考えないで、実際にはそういうのはいたんだといって、小説のでたらめな図々しさではなく神話性のほうに引きつけちゃう。小説は、偶然でいいのです。ブニュエルの映画がそうなんですよ。現実では起こりえないような偶然ね。女の子が牢屋に入れられるんですが、牢屋の鉄格子にふっと手を触れると取れちゃう。それでそのまま出て行っちゃうんですが、荒唐無稽というかね……。
柄谷  それは、事実なんですか。
蓮實  いや、事実じゃないんだけど、そういうものだけでつくりあげちゃった映画があるんです。ふっと彼女が鉄格子のほうをみる前に、鉄格子から光が漏れていて、十字架になっているんですよ。十字架なんで、ふっと触れると、さっと外に出ていっちゃう。
柄谷  それは、でもリアルだな(笑)。

  M. Night Shyamalan『レディ・イン・ザ・ウォーター』に感動したし感動させられた。シャマラン監督は本気で映画というものを復活させようとしているんじゃないだろうか?まったく狂気の沙汰だがエンドクレジットのキャスト項目にシャマランの名前を見つけたときその疑いは確信に変わり思わず叫びだしそうになった。シャマランの顔をはっきりとは知らなかったのだが彼がインド系だということは知っていたのだ、そしてインド系の男性といえば映画の中にはひとりしかいない……ひと際強い眼差しと童貞臭を備えたあの暗がりより見つめる作家志望の青年、物語のうえではほとんど何もしないに等しい棒立ちの存在にすぎないが間違いなくこの映画の中心に鎮座しその伝達性を体現する器たる者、あの物言いたげなクリクリとしながら窪んだ眼窩が何度もスクリーンに大写しになると思ったら……。しかも作中では映画評論家がしかつめらしい面持ちで的外れな蘊蓄を披露し、果てにはただひとり怪物の歯牙にかかり退場させられる。恥知らず?その通り。とにかく今回のシャマランは徹底しているのだ。映画はまず冒頭の(少なくともこの段階では)意味のよくわからない説話によって観客にこの映画をそのままの形で受け入れるよう示す。そして唐突に世界が提示される。舞台となるのは大きなプールをコの字で囲むように建つアパートで、さらにその周囲に広がる森に向かって開かれている。フィラデルフィアにあるらしいがどこか別の土地に繋がっているとはにわかに信じがたい。クリストファー・ドイルの捉えるアパート正面からのショットは閉鎖性や孤立感ではなくむしろ無限に拡張していく感じ……を漂わせながら無造作に切り外されたかのような抽象性を印象づけさせる。しかしアパートではここの「主」である偏屈親父がドアを全面開放したまま部屋に引きこもってテレビに映ったイラク戦争にまつわる映像をずっと眺めているのだ。(しかしあのアパートを主人公が歩きまわる一連の場面はまるでアジア映画を観ているかのような錯覚を与える。アジア系の親子が頻繁に出てきたからというわけではなく。そして終わりのほうはなんか日本映画みたいだった)

 とりあえずこの映画に出てくる人物たちはこちらに疑問の余地を与える間もないほど何でも呆気なく真に受けてしまう。ご都合主義とかそういう言葉を完全に越えているのだ。恐ろしいことにここには事実しか存在しない。矢継ぎ早に新たな事実が判明していき、それによってかつての事実がひっくり返され、しかしそのことに対する説明もなければ因果関係さえ不明なのだがとにかく事実なのだと納得するひまもなく物語は進んでいく……少なくとも進んでいるということが人物たちの行動で示される。事実しかなく、行動しかない!見ろ、そして聞け。この二つを混同するな。そこに説得はなく、サービスもない。ぶっきらぼうに映画が投げ置かれているだけだ。彼らは「信じろ」と言う。ほんの数分前まで物語のまったく蚊帳の外にいたマイノリティの連中が、しかしあっさりと信じる側にまわり、そしていままで無我夢中で事実の連鎖のただ中にいた主人公の背中をそっと押す。なぜ信じるのか?信じるから信じるのだ。事実だから信じるわけではない、信じるから事実になったわけでもない。ただ彼らが信じ、その事実があったというだけ。整合性や厳密さをいっさい欠いたおとぎ話(ベッド・ストーリー)として描かれたこの映画はその痕跡をただ観客に示すのみなのだ。

 そしてこの映画の最も素晴らしい点は既存のシャマラン作品の特徴とも言うべきどんでん返しや大ネタがどこにも仕込まれていないと言うことだ。まったくこれは忌むべきもので、『シックス・センス』や『アンブレイカブル』が好きだともう一つ素直に思えないのはあの見え見えのマッチポンプのせいだし(それでも言うけど……まあ後者は素晴らしく奇妙な作品だが好きかどうかは微妙かも)、そのおかげで受けたのかも知れないけどその評判ばかりが一人歩きして意味不明やら安っぽいやらパクリやら謂われなきとは言えないもののそれでも決定的に不当な批判や罵倒を受けつづけてきたのは苦々しいというほかない。にもかかわらずこのような奇妙な、しかし掛け値なしに感動的な映画を作ってしまうのだから生きている甲斐があるというものだ。そして重要なのはこの映画ならびにいままで書いてきたことは多くの人間にとっては茶番事でしかないということだ。もちろんそれは悲しむべきことだが悲しんでいる場合ではない。あらためて黒沢清『LOFT』を再見したいと思ったし(金沢で観ます。トーク付き)、ついでにポン・ジュノグエムル』とも併せて考えてみたいとも思った。ぜんぜん違う三本だけども、黒沢清を支点に据えることでつながりが見えてくる。黒沢監督がシャマランをどう思っているか聞きたい。今回は嫉妬してもいいと思うのだが……むろん庵野秀明を見る宮崎駿のように、ではなく。