小島信夫が「芥川賞作家」呼ばわりされている。そうか獲っていたっけなあ、そうでないはずはないよなあ……と思う。いつまでも「アメリカン・スクール」でもあるまいになあ……とも思うがそんなことは即座に忘れる(で、いま思い出したがたぶんまたすぐ忘れる)。パソコンデスクの脇には棚に収まりきらなかったり引っ張り出したまま放置していたり最近よく手にしたりするCDやら本やらが手癖を反映したままいくつかの山をつくって蠢いていて、そのてっぺんから志村貴子放浪息子』が何冊か姿を見せているのが目に入る(一巻が見あたらない。ここしばらく身売りに出されているのだ。この漫画は巻を経るごとに絵柄も描き方も少しずつ変わっていくのだが一巻はやはり異質で、読みにくく、というか読み流させず、澱み、しかしあっさりと切断し、ふっと温かな手に背中を押されたと思ったら崖っぷちで狼狽えていることに気づかされる。大げさかも知れないがほとんど詩的コラージュと言ってもよく、冬野さほのように読んだ……読んでいた、ということらしかった。そしていつのまにか玄関先で、歩道橋の上り口で、ソファの隙間で二鳥修一にメタモルフォセスしていて、あるいはしかけているところで、「こっちの身にもなってよ」と咎められ、今日もまた元気に絶望したのだった)。帯に「ぼくたちの、いさかい。」とか「ぼくたちの、とまどい。」とか書いてある。その文字がいまは煩わしい。山名沢湖の「夏の前の帰り道の」の掲載1P目にも「少女期の、センシティブな心を巧みに描き上げる……」とか書いてある。もうやめて、という感じだ。作品という枠を最も必要としているのが誰かということがわかる。強度という幻想はもう捨て去ろう。そしてやっぱり拾い上げてポケットに入れておこう。いまさらポストモダンだっていいじゃないか。未来派けっこう、前衛けっこう。たとえば映画は伝えることからはじまる。スタッフでも、出資者でも、俳優でも。だがそこでお終いだ、伝言ゲームはそこで打ち止めなのだ。あと映画がしなくてはならないのは資金の回収だが、もはやそれは映画自身の役割の範疇を超えている。映画は興行だが興行主は映画監督でもなければ映画自身でもない。至極当たり前の話。気の利いた話ひとつ浮かばないという予定調和。野ざらしになった選択肢の成れの果て。