映画。2006年もまた観ていない、観ていないと例のごとく同じフレーズを囀るほかないのだがではどれだけ観ていたら「それにしても今年はよく観たなぁ」とキングサイズのソファに身を沈めながらしみじみと目を細めブランデーグラスを傾けることができるのかというとよくわからない。掃いて捨てるほどの時間がありまた困窮極限の生活を強いられていたわけでもなかった学生時代でもビデオ含めても年200本は観ていなかったと思うのでやはり映画というものにあまり興味がないのだろう。だからこそレイトショウのみ一週上映というあまりに無茶なスケジュールだったり観たいものが似たり寄ったりのスケジュールで立て続けに公開されると上映を待ちこがれていたはずのタイトルさえ「余裕でスルー」(涙目で)してしまうことも少なくなくあとで泣く羽目に陥ったりケロリとしてDVDを買い求めたり存在自体が記憶から抹消されたりしてしまう。何たらの法則ではないが観たいものは多くないのになぜか固まる傾向にあるのだ。せっかく土日に映画の日が巡ってきたからって観たくないものは観たくない。それでも今年は『ストロベリーショートケイクス』に思いつきで立ち寄ってほんのりと嫌な気分にさせられたのだけど(悪い映画じゃない。印象に残る画はいくつもあるし、雰囲気もいい。なにより池脇千鶴が本当に素晴らしく、冒頭の男の足にまとわりつきながら往来を引きずられていく異様なシークエンスから片時も目が離せなかったし、最後の最後まで、ほんのわずかな染みに至るまで淀みなく素晴らしかったと言える。ただ冒頭の異様さが画面の質を提示し、つづく棺桶の寝床から女が起き上がってくるシークエンスでそれを決定づけたように見えて、いきなりホテトル嬢たちの描写になるとバブル期の村上龍みたいになっちゃうのはいただけないというかぶち壊しというか無意味な段差にしんどくなるというか……保坂和志が下半身バスタオル姿で中出ししたホテトル嬢に札びらをばらまいているのは質の悪い冗談かと思った)。

 で、思い出してみた。2006年は一月の『ロバと王女』にはじまり十二月の『リトル・ミス・サンシャイン』で終えた。いま頭に浮かぶベスト5は『レディ・イン・ザ・ウォーター』、『グエムル』、『エコール』、そしてワイズマンから『臨死』、鈴木則文から『シルクハットの大親分』がおおよそ順不同というか比較不能な感じで。あとはyoutubeで配信されたコマーシャル映像だが、"Where the Hell is Matt?"には不意打ち的に感動させられた。Deep Forestの音楽に乗せてひとりの若者が世界各地に赴き固定カメラの前で同じダンスを踊る……単にそれだけの4分足らずのビデオ映像なのだが、それでもこれは映画以外の何ものでもない(BGMの使われ方がものすごくはまっていて、最近何かのCMでDeep Frestが使われていたのを聴いて反射的に「インスパイア?」と疑ってしまったくらい印象的)。映画はボリビアの天と海が面を接しているかのような楽園的な情景からはじまり、日本、ボツワナノルウェイ、南極……と次々カメラは切り替わり、ときには海中で、ときには現地の人々や動物に取り囲まれながら、監督は常にその中央で、そのショットを成り立たせる環境の中央で、ちょっと距離をおいて、その環境の一部として、陽気で慎ましやかで心もちぶきっちょなダンスを踊りつづける(それだけでもう泣けてきてしまう)。そして映画の最後にガムの宣伝文句と誘導のブックマークが現れることでこの映像の成立と流通に関する種明かしが成されるわけだ。youtubeや監督のサイトにはもうひとつ同じような映像があって、ダンスは似ているのだけど踊り、撮影ともにまだあまりこなれていなくてこっちはこっちで別の味がある。おそらく私費で撮られたこの映像が企業の目に止まって今回の話につながったのだろう。趣味で撮っていたものを企業の依頼と出資で撮り直す、自分の目的と他人の期待が渾然となり、ずれ、反復として穿たれたことがこの映像を映画に、しかもかなり純度の高いものとして成らしめたのではないか。藤子F不二雄の脅威としか言いようのない短編「ある日…」に出てくる映画サークルの一員がこれを彷彿とさせる8mm映画を撮っていて、まあ世界の各地でマラソンランナーの格好をして走る姿をとらえてまわるというところに多少は映画らしくしようという意志というか色気が感じられ、それゆえ決定的に壊滅的にダメなのだが……でもそれが、そうなってしまうのが人情というものだし結局のところプロ/アマチュアの別を問わずそういう視線によってかろうじて成り立ってしまっているような映画は決して少なくない。冗談ではなく今後映画を志す人間はこの映像と"Star Wars Kid"を100ぺん観た方がいいと思う。