放映終了から半年が経過しようとするいまなお『シムーン』が熱い……というか存在感をいや増している気がするのはおそらく我が家の不在の居候であるところの脳細胞二個マンの要請というか導きによって週に一〜二本のペースでテレビ放映分を再度頭から観返しているからなのだろうが、今年初め辺りまで同様の形でほぼ並行的に観返していた『AIR』や『涼宮ハルヒの憂鬱』には然るべき充実や快さ、ちょっとした発見などはあってもいったんその役目を終え運動を奪われたかに見えたものがにわかに息づきはじめ動きだしやがて眼前にごろりと横たわりなおゆっくりと胸を上下させつづけるかのような生々しさの手触りは希薄だった(やはり『ハルヒ』は短編にあたるエピソードの方が面白いというか「見ていられる」なあ、と。他愛なさを他愛なさのままで受け止めることができる感じ。いまとなってはテレビ放映時の必然性の薄い時系列シャッフルは平板で凡庸な本編を(クライマックスとして)最後まで保たせるために採用されたのではないかとさえ思うくらいだ。とはいえ「ライブアライブ」にはこのアニメのつまらない部分(事由)が凝縮されているようで、特にキョンの立ち位置にはうんざりさせられもしたし、それ故に象徴的な一話で、実際よく考え込まれて構成されているとは思うのだけど)。他人においそれとは薦めにくい序盤の異様なまでの腰の重さ……大胆というかほとんど無謀な実践というほかなく、しかしながら受け手とのあいだに埒もない共犯関係を結ぼうとはしない潔さが漲っていて、画面全体に拡がり展開するようなものではないものの細く張り詰めた線が間断なく、まるで視線から隔てられるかのように水面下に巡らされていて、それをふと見つけて指で弾いてみたりまた何かの拍子でひじの辺りが触れてしまうことで振動し、響きが伝達されることで共鳴や不協和音が生じ、やがて、あるいは一瞬で消え去るが、その残響はまだ耳の奥でかすかに震えているのだ。勢いで小説版も読んでみた。まだ一巻だけだが悪くない(アーエルの無駄にデカい声が鳴り、ネヴィリルの憂鬱なおでこが照り……)。さすがに後半は性急すぎて出来事を追うだけで精一杯の態で、しかも踏まえるべき出来事が微妙に足りていない感じではあるけど。ひとつ。全身ヌーブラみたいなスイムスーツをまとってマージュ・プールを泳ぐ巫女たちの姿は手塚治虫火の鳥』に出てくるムーピー・ゲームを彷彿とさせる。シモーヌ・ヴェイユを読みたくなる。