それで今日は兵庫県立美術館ビル・ヴィオラ展「はつゆめ」をみて(シモーヌ・ヴェイユヴィオラを並べるとその向こうに仏教や禅などの東洋思想が立ち現れてくる。ヴェイユ自身の書くものはほとんど仏教的とは言えないと思うが、ヴィオラの作品を体感、つまり立ち止まり、凝視し、ちょっと目頭を熱くさせ、立ち去り、しかし立ち去りがたく引き返し、一瞥し、やはりそのまま立ち去ることでいままで不理解のため見えていなかったつながり、その共鳴、少なくとも同じ方位に位置するということが……)、それから三宮で食事をして家に戻り、さて買ってきたaristophanesでも読もうかしらとニヤニヤしながらBasil『それは舞い散る桜のように』をインストールしているところで通販で注文していたチェルフィッチュ『三月の5日間』のDVDが届き、ちょっとだけみてみようと思っているうちにインストール終了を知らされたけど気にせず再生し、再生されるのを待つあいだりぺあでダウンロードしてきたパッチを当て、当てているうちにはじまろうとしていたのでちょっとだけちょっとだけと念じながらテレビの前にあぐらをかいて10秒もしないで引き込まれあっというまに90分。なんでこんなに面白いんだ。演劇なのに(ナンチャッテ)。とはいえNHKでみた『目的地』のほうが好きではあるし、そのときはひとときたりとも椅子でじっと鑑賞などしていられなかったのだけど、今回はせいぜい卓袱台のうえに片膝立てて腰掛けるかベッドの脇にしがみついて半ばぶらさがる程度のアクションで済ませることができた。二回目だからかも知れないが(ちなみに来週、伊丹で開催される岡田利規氏のワークショップに行くので感想を書けたら書きます)。

 ともかくチェルフィッチュの舞台をみると(いまだテレビでしかみていないので演劇として、観客としてその場に立ち会ってどうなのかということはよくわからないし、テクストの異なる読み方、享受の仕方として興味はあるものの別段差し迫ってその必要性を感じているわけでもないのだけど生でみたいかみたくないかということならばむろんのことみたいに決まっている)身体の中で熱がくすぶりはじめる。それは共感によるものだが、決して寄り添ったり交わったりすることはない。居る場所もちがうし、やっていることもちがう。居る場所というのは単に活動範囲や環境のことで、やっていることというのは日々の営為のことにすぎず、そんなものちがうのは当たり前で、だからこそ共感というのは直裁に言語で伝えたり何らかの化学反応を誘発するくらいで済むほど生やさしいものではなく、それゆえほとんどそれ以前の未発達な情動として身体の内に収められるしかない。