[rakuten:book:11897900:image:large] シャルル・フーリエ『愛の新世界』は緒文にあたる「情念研究と自然の物質的豊かさにおける神の兆候について」なる見出しからはじまるわけだがその前頁、正確に言えばその前頁は扉で、本文全体が切り分けられた六つの塊のその第一であるということを示すローマ数字が穿たれた真っ白な頁のそのまた前頁ということになるのだが(ところでこういう本を読むとき、あくまで参照するタイミングはまちまちなんだけど、訳註や原註はまずどのへんを探しますか?なんか妙に複雑怪奇な配置になってて、見つかんねえよ、ってことないですか。ちぐはぐなまま読み進めていて、あとで対応の誤りに気がついて妙に恥ずかしくなったり。だから原註はともかく訳註は後でまとめて読んでその都度本文を遡る形をとることが多い。まあ文庫版『アンチ・オイディプス』みたいな「上巻の註が下巻にあった」という事態ほどひどい例は滅多にあるものではないですけど)、そしてそこには翻訳者(福島知己)の手による凡例が記してあるのだが、まさにその凡例を一日を費やして、ずっと、繰り返し、ぼんやり、ためつすがめつ読んでいた……とはいえ一日というのはその一日のうちで『愛の新世界』を読むことに費やされた時間全体のことを指すのにすぎず、時間にして十五分に満たなかったかも知れないのだけど、ともかくたった一頁、十二の項目に纏められた平易で説明的な、というか説明そのものを読むことに記念すべきそして満を持して迎えた『愛の新世紀』読み初めのほとんどすべてを預け、その日はそこできっちりと本を閉じたのだった。そういう読書があってもいい。そして『愛の新世界』に限っていえば凡例には必ず目を通しておくべきだ。それに一日を費やせとはいわないが、ニーチェの『善悪の彼岸』とかに凡例があったら同じことをしてしまうんだろうなあとは思う。

 録り貯めしていたアニメ『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』をゆっくりみていていま第九話(気がついたら現クール下の視聴アニメが『コードギアス』『ひだまりスケッチ』を含む三本だけに……そしてあと二週間もしないうちにまた恐怖の四月がはじまるわけでつい先日まで新番組の数に戦々恐々としていたものだが、日曜日に盆と正月がいっしょにきたせいで何もかもどうでもよくなった。ロミオと京アニを、彼らの成果をただ待つことを自らに許すのみだ)。急いでみてしまうのは勿体ない、と我慢しつつ。しかし作品はときとして、そして放送も後半に入ればなおさら性急さにとらわれがちだ(しかも制作があくまでufotableなのだから放送が少なくともメディア形態上の収束を迎えるまでいささかの予断も許されない)。作品の舞台となるのはどうやら2030年ごろの近未来らしいのだが作中ではっきりと年代が示されるわけではない。あ、近未来だったのか、とようやく気がついたのは(録画失敗のため)三話を飛ばして第四話、衛藤芽生が学校をエスケープして自室で立体スクリーンの携帯ゲームをしていたのをみたときだった。鈍いにもほどがある。目は節穴か?それとも節穴だらけなのは脳のほうか?そもそも第一話から天宮学美堀江由衣っていいもんだなあ、としみじみ思った。最近の彼女の仕事は軒並み好印象)が空飛ぶスケボーに乗って登校という名の暴走と突進に興じる様が惜しみなく曝されていたじゃないか。しかしそれは「そういうもの」として穏当に処理されてしまっていたのだ。また進行をつづける少子化に伴った学級の縮小化、あるいは統廃合の懸念もはじめから囁かれてもいたのだが、これもまた、なるほどそういう世界なんだな、ということであくまで作品内情報としてスルーしてしまっていた。ゆとり教育の波が世代を超えてここまで迫ってきていたのだ。そして「そういうもの」「そういう世界」ではない時間の断層、歴史の存在が明らかにされたのがこの第九話なのだ。厚みや説得性をほとんど欠いた形で。そうであるからこそ無防備に祈られ、つまり具体的な行為として祈りが行なわれ、信じられてしまう、ぎくしゃくとした運動として連鎖してしまう。このちぐはぐさ、段差の凹凸が良くも悪くも『まなびストレート!』なのだ。……正直、いままで狙いすぎの演出や絵作りにめまいを覚える瞬間がなかったわけではない。どうしてそうなるかなあ、とうんざりしかけたことも同様だ(アイスキャンディの舐め方とか学美の兄の恋人とか)。だが演出者の意図を外れ、超え、離れ、適当に野放しにしておいてからあやしつけたりしてみせる程度の余裕はこちらにだってじゅうぶんある。目の前にあるものを歪曲し、ないものをあると、あるものをないと言い張り、作品そのものをだしにして自己表出に懸命になってしまっては救いようがないが、演出者の手のひらから降りるくらいの自由はこの作品には確保されているし積極的にそうしたいと思わされるものを受け取ったのも確かなのだ。

 吉田拓郎のある歌に《どけ、そこをどけ 真実のお通りだ》というフレーズがあって、やけに印象に残っている。真実には道を空けるべきなのだ。そして真実にだけしか道を空けるべきではないのだ。だから見極めねばならない。時機を、方角を、情趣を、福音を。そして然るべきときがきたら五感を閉ざし、ただちに道を空けよ!