『まなびストレート!』11話をみたのですが……やはり性急さは否めない感じがした。まなびが花火に気づいて見上げる一瞬の動作と表情なんかたまらなく好きだし、学園祭及びその準備の描写に割り当てられた放送時間の尺が短すぎるとも思えず、また画面上に表れるべきものはしっかりと過不足なく表れているとは思うのだが、回収の意志や必要性、構成の都合が愛洸学園理事長や学園祭前日のまなびたちのやりとりによって強引に帳尻を合わせられているような歯痒さ(は、しかし諦めとしてさっさと身体の隅に追いやって最終回に胸をふくらませておけばいいのだと快い気持ちで何の気なしに『コードギアス』の録画を継続視聴していたら頭(以下略))をどうしても感じてしまう。ひょっとしたら直裁的な物言い抜きで伝える自信がないのか?語弊があるなら「伝わるという自信がないのか」と置き換えてもいいが……小細工なしでもじゅうぶん勝負できるのになあ、と、今回に限らずイマまで何度も引っかかりを覚えながら残念さの萌芽を手の内で握りつぶしてきたのだった。ところで黒沢清『叫』はこのうえなく明晰な幽霊(怪談)映画で意味深どころではない規格外の異様な細部を持ちながらもみたあとかなりすっきりとしてしまったのだけど、脚本に関しては今回も黒沢監督自身による執筆のためか若干言語が走りがちだったように思う。特に前半、作業船を漕ぐ加瀬亮がわざわざ陸にいる役所広司に「ここからは裏側がよく見えるぞ」と声をかけるところでは思わず座席からずり落ちそうになってしまった(後半の加瀬氏は果たす役割の重要性も相まってかなり印象的。役所氏を乗せた作業船が帆先を画面に向けて大きく旋回する動きもいい)。『地獄の警備員』の「俺を忘れるな」とか、『アカルイミライ』の「許す」とか、『ドッペルゲンガー』の「こんなことのためにやってるんじゃない」(だっけ?これだけは劇場でみたきりだなあ。いつか"The Boston Strangler"が日本でDVD化したら一緒に買っとこう。ところでふと思ったんだけどリチャード・フライシャーの『ゲバラ』と『アカルイミライ』のゲバラ軍団ってなんか関係あったりするんだろうか)とか、『スウィートホーム』前後の状況変化やトラブルに遠く起因するものもあるのかも知れないが、やはりこれは黒沢氏の(伝わる)自信のなさの表れではないかと思う。もちろん観客に伝える前にスタッフや俳優に伝わらなければ映画は完成しないし、まずプロデューサーや製作会社に伝わらなければ制作自体がはじまりもしないのだが……。しかしながら無責任な観客としてはもう黒沢清はそんなこと心配しなくてもいい位置にいるんじゃないの?とか思ってしまうわけだ。ちがうの?ちがうんならもう一度、一度だけでいいので、他人たとえば高橋洋あたりに完全に脚本を預けてみてはどうだろうか。で、ここで『水虎』が登場すれば永年のファンも納得ではないかと思うがいかがでしょうか。