岡田利規によるワークショップ&パフォーマンス発表公演『奇妙さ』。早めについたので伊丹駅の近辺をウロウロしていたら電光掲示板にて今日の天気「くもり」という明白このうえないというかただちに空を見上げた方がよっぽど迅速かつ精確に得られるであろう情報が示され、それから緩慢な動きで『奇妙さ』の公演告知があらわれたので、えっ、そんなに大きな扱いなのか、とちょっとあわてたのだけど、だからといって周囲の空間をまだらに刻む家族連れや学生たちがなにがしかのアクションを起こす気配などなく、実際のところ伊丹アイホールは小演劇にありがちの肌に練り込まれるようなよそよそしくなれなれしい親密さに満たされていて、やはりこれもまた「演劇」なのか、そうであるにすぎないのか、と物憂さに浸されながら雨のしだれに身を任せていたのだけどそれは単に瘴気にあてられてのぼせていただけだった。そもそもこれはワークショップの成果を披露する場でもあって、たとえ岡田氏が「やるからには作品にする」とあらかじめ明言していたとしても、そして実際にそれは作品になっていたし、しかしそれでも同時にまたどうしようもなく「お披露目」でもあって、かといってそのことで作品性が損なわれたということではなく、むしろ閉じた作品性がいったん解放されまた別の袋小路に閉じこめられるその一瞬をとらえ引き延ばしたようなものだとも言え、つまりはワークショップならではの、普段のチェルフィッチュの公演ではとてもお目にかかれないようなまさにタイトルどおり「奇妙」な舞台ではあったのだ。アパートの一室に引っ越してきた何人かいる同一の二人組の柴田さんの一組に何人かいる同一の柴田さんの一人が話しかけている、同一の言葉を、同一の流れで、同一の方向に差し向け、柴田さんと佐藤さんは入れ替わり立ち替わりしながら、各々の身体の動きとその不正確な反復によって徐々に薄暗さが空間に差し挟まれていく。癖のようなそうでないような固有の身体の動きや繰り返される言葉は外部から持ち込まれたものなのだがそれらが不可分のものとして空間を形成するとき決して個々に焦点化したりクローズアップされることはない。それは日常的で、ある種の親密さが支配する空間なのだが、そこにはすでに対象化された目的はなく、ただ倫理だけがあらわれとして横たわるにすぎない。しかしその張り詰めた肌理にわずかであれノイズが走ることで瞬時にその親密さは解け、ぐずぐずに溶け出し、たちまち観客の欠伸を誘うのだ。おもしろく、刺激的で、それゆえに居たたまれず、眠たかった。

 ある種の無邪気で賢しらな人々にとって映画とは無前提で大予算を投じたハリウッド映画及びそれに類した国内外のロードショウ作品を指し、文学とは芥川賞の候補になるような文学誌掲載の国内作品に限られる。都合のいい話だ。そいつらにレムの『大失敗』とかペレーヴィンの『恐怖の兜』とか笙野頼子『一、二、三、死、今日を生きよう! 成田参拝』を投げつけて顔面陥没の憂き目にあわせてやりたい。みずから耕した作物をみずからの足で踏みつぶすような真似は金輪際よせ、というのだ。たまには自然の恩恵に感謝しても罰は当たらないし、破壊者であり模倣者であり調停者であるみずからもまた自然の一部だということを知ることができればその壮大なるマッチポンプの体系にも気づくことができるだろう。もう沢山なんですよ。仏教徒になりなさいよ。ツンデレという現象は女性の優しさ、寛容さに起源を持つのだ。目を見開け。したり顔で甘えるな。「それ」はあなたがたのおもちゃではない。